「ジプシー」問題

Related to http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20131229/1388324451

「「差別用語」と「差別用語」規制」http://d.hatena.ne.jp/asobitarian/20130812/1376289967(Via http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20131230/1388398858


例えば、


日本では、とくに部落差別と障害者差別に関わりがあるとされる言葉について、過剰なまでの(あるいはバカバカしい)自主規制が行われてきた歴史がある。たとえば、「四つ」という言葉が被差別部落に対する蔑称だとの理由から、部落差別と全く関係ないにも関わらず、ちあきなおみの「四つのお願い」という歌が放送禁止になったり、大阪の教科書出版社が小学校の算数の教科書から「四つ」という表現を削除したり、漫画で親指を折って4本指を示した手のシーンに、出版社の自主規制で指を一本付けたし、6本指になってしまった、というようなバカバカしい“自主規制”が無数に行われてきた。これらはもちろん、部落解放同盟からの糾弾を恐れたためでもあろうし、また、「規制さえしておけば問題ない」という事なかれ主義的態度によるものでもあろう。
という指摘などはその通りだと思う。しかし、「ジプシー」*1について指摘した次のパッセージはどうだろうか;

 阪神大震災の後だったと思うが、どこかの高校の野球部が、震災により自校のグラウンドが使えなくなったために、他校のグランドをあちこち借りて練習しているという記事に、あるスポーツ紙が「○○高野球部、ジプシー暮らし」といったところ、「ジプシー」は差別語だという抗議が寄せられ、謝罪と訂正をした、という事件があった。確かに、国連などでは、「ジプシー」という言葉の代わりに、「ロマ」「ロマニ」という表現が用いられる傾向にあるが、「ジプシー」が差別用語である、というのは物事を単純化した思い込みにすぎない。確かにこの言葉を嫌う集団もいるが、逆に誇りをもって自称している集団もいる。現に私の所蔵するジプシーに関する研究書は3冊ともに「ジプシー」という言葉をタイトルに使っており、「ロマ」や「ロマニ」を使っていない。「エスキモー」についても同様の指摘を行うことができる。機械的に「イヌイット」に置き換えればいい、と思っている日本人が多いが、自ら「エスキモー」と自称している人々もいるのである。
たしかに、「ジプシー」を「ロマ」に機械的に置換すればよしとするような態度に対しては、馬鹿! とはっきり言うべきだろう。ただ、「私の所蔵するジプシーに関する研究書は3冊ともに「ジプシー」という言葉をタイトルに使っており、「ロマ」や「ロマニ」を使っていない」というのは「ジプシー」が「差別用語」ではないことの理由にはならない。因みに、私も「ジプシーに関する研究書」の翻訳に関わっているのだった(シブレー『都市社会のアウトサイダー』)。また、差別用語差別用語として生成するのは、それが不適切な比喩として濫用されることによってである*2。或いは「零記号」化*3による。「 阪神大震災の後だったと思うが、どこかの高校の野球部が、震災により自校のグラウンドが使えなくなったために、他校のグランドをあちこち借りて練習しているという記事に、あるスポーツ紙が「○○高野球部、ジプシー暮らし」といったところ、「ジプシー」は差別語だという抗議が寄せられ、謝罪と訂正をした、という事件があった」ということだが、この場合の「ジプシー」は適切な比喩だとは思わない。どういう「抗議」があったのか知らないけれど、何よりも、それが上から目線で、且つ凡庸な表現だということが責められるべきだろう。また、「原発ジプシー」問題だが*4、これは原発労働者による自虐的表現であって、新聞記者による上から目線の同情したふり表現とは同列に論じられないのではないかとも思う。
Outsiders in Urban Society

Outsiders in Urban Society

都市社会のアウトサイダー

都市社会のアウトサイダー

ところで、私の若い頃は、「ジプシー」問題の入門書としては、相沢久『ジプシー』(講談社現代新書)、ジュール・ブロック『ジプシー』(文庫クセジュ)とかが読まれていたと思う。最近の情報はあまり知らないけど。 
ジプシー―漂泊の魂 (講談社現代新書)

ジプシー―漂泊の魂 (講談社現代新書)

ジプシー (文庫クセジュ)

ジプシー (文庫クセジュ)

エスキモー」/「イヌイット」問題については別に。