「ローカル志向」(メモ)

広井良典「日本救う若者のローカル志向」『毎日新聞』2013年12月9日夕刊


「若者のローカル志向」を「最近の若者は”内向き”になったとか、”外”に出ていく覇気がないといった批判がなされることがよくあるが、これほど的外れな意見はないと思っている」という。「ローカル志向」の「もっとも根本的な背景」について、広井氏は次のように述べている;


すなわち高度成長期を中心に、拡大・成長の時代においては、工業化というベクトルを駆動因として世の中が「一つの方向」に向かって進み、その結果、各地域は”進んでいる−遅れている”という時間軸にそって位置づけられることになる(東京は進んでいる、地方は遅れている等々)。ところがポスト成長の時代においては、そもそもそうした一元的な時間座標が背景に退き、逆に各地域のもつ独自の個性や風土的多様性に人々の関心が向かうようになる。単純化していえば、時間軸よりも「空間軸」が前面に出る時代になっていくのである。
ただし、「ローカル志向」と「各地域のもつ独自の個性や風土的多様性」と必ずしも関係があるものではないという意見もあり。大澤真幸*1阿部真大*2『地方にこもる若者たち』の書評で*3、この本を要約しつつ、次のように述べている;

 「地元にもどる」とか「地方にこもる」と言うとき、「地元」「地方」といった語によって現在の若者たちが指示している対象、こうした語によってイメージされている社会の実態は、かつて「東京志向」が主流だったときに前提となっていた「地方/東京」「田舎/都会」の二項対立の中で指し示されている地方・故郷・田舎とは、まったく違っている。このことが、本書の前半である「現在篇」によって明確に示される。
 人生の理想は東京で実現すると信じていたかつての若者が、それでも、故郷や田舎に帰ってくるのは、そこに、東京では得られなかった濃密な共同性や愛すべき自然環境があると見なした場合である。
 ところが、阿部が大学生たちに、「地元と聞いて思い出すものは何ですか?」というアンケートをとったときに返ってくる答えは、「イオン」「ミスドミスタードーナツ)」「マック」「ロイホロイヤルホスト)」などである。この答えは驚きである。なぜなら、これらのものに、地元的な固有性はいささかもないからである。むしろ、これらは、それぞれの地方に固有な特殊性が、とりわけ希薄なものばかりである。ミスドもマックも、日本中、どこにでもある(場合によっては、世界中にある)。とすると、若者たちは、「地元がいい」と言いつつ、特に地元にもどらなくてもいくらでも見つかるような場所や施設を思い浮かべていることになる。
 それならば、彼らは、地元の何に魅力を感じているのか。かつてだったら、田舎に回帰する者たちは、その地域に根ざした共同性や人間関係に愛着をもっていた。しかし、阿部の調査は、ここでも、過去のイメージがあてはまらないことを示している。その調査によると、地方にいる若者たちの圧倒的な多数が、つまり調査対象となった若者のおよそ4分の3が「地域の人間関係は希薄である」と答えている。他の人間関係については、希薄だと答えている者の率は、はるかに低いので(満足していない者の比率は、家族関係に関しては、およそ5分の1、友人関係については1割未満しかいない)、彼らは、地域の人間関係に対して、ことのほか背を向けている、ということになる。地域の共同性が好きでもないのに、わざわざ地方にとどまっているのだ(ついでに指摘しておけば、本書の後半に、2012年におこなわれた、東日本大震災で被災した3県の調査が紹介されており、それによると、「近所の人」が頼りになったと答える人の率が最も低いのは、人口10万代の地方中小都市で、通念に反して、大都市の方が「近所の人」への信頼度が高い)。
 地元のイメージが託されているものは、どこにでもある施設で、地元の地縁共同体にも参加意識をもてないのだとすると、若者たちはなぜ地元を志向するのだろうか。阿部が調査をもとに結論していることは、わりと穏当なものである。すなわち、1990年代以降のモータライゼーションが生み出した、大型ショッピングモールが立ち並ぶ郊外が、地方の若者たちにとって「ほどほどの楽しみ」を与えてくれるためだ、と。要するに、駐車場が完備した、国道沿いのイオンモールで遊べば、そこそこ満足できる、というわけだ。地方都市は、余暇の楽しみのための場所がない田舎と刺激が強すぎる大都市との中間にある「ほどほどパラダイス」になっている、というのが、本書の前半の「現代篇」の最も重要な主張である。さらに、あまり明示的には語られていないことを付け加えておけば、そのほどほどパラダイスで鍵となっている人間関係は友人関係、もっとはっきり言うと、中学や高校のときの同級生の関係であろう。
かくして、「ローカル志向」は三浦展氏のいう「ファスト風土化」に大接近することになる(『ファスト風土化する日本』*4)。しかし、大澤氏は「1990年代以降のモータライゼーションが生み出した、大型ショッピングモールが立ち並ぶ郊外が、地方の若者たちにとって「ほどほどの楽しみ」を与えてくれるため」という理由づけにはかなり不満なようだ。ドラマ『あまちゃん』に言及しつつ、

地元志向の、一筋縄ではいかない複雑さや深さは、たとえば、今年(2013年)大ヒットした「あまちゃん」のことを考えただけでも、思い至ることができるだろう。「あまちゃん」の脚本を書いた宮藤官九郎は、00年代の初頭から、郊外的な「地元」にこだわり続けてきた。
(略)
その宮藤官九郎の、現在のところの到達点が、「あまちゃん」であろう。「あまちゃん」は、主人公のアキが、母の春子に連れられて、地元北三陸に帰ってくるところから始まる。いや、北三陸は、アキにとって、普通の意味での地元ではない。彼女は、東京の世田谷で生まれ育っており、北三陸には一度も行ったことがなかったのだから。しかし、北三陸は、すぐに、アキにとって、地元以上の地元、ごく短期間暮らしただけなのに、世田谷よりもはるかに懐かしく愛情を感じる地元になる。
 アキと春子が帰ってきた北三陸には、やはり、地元を超える地元を象徴する人物、夏ばっぱ(アキの祖母)がいる。夏は、北三陸という地元を一度も離れたことがない。いや、彼女は、ただ地元に定住しているだけではない。夏は、逆に、深く潜る人である。海女という仕事が、夏の「地元を超える地元」への志向を表現している。
 夏の最愛の夫(アキの祖父)の忠兵衛が、また興味深い人物だ。遠洋漁業を生業としていて、1年に10日ほどしか地元にもどらない忠兵衛が目指す先は、東京どころではない。彼は、東京とか日本とかといった領域が意味をもたないような、グローバルで普遍的な空間(大洋)を移動する。しかし、その自由な移動のためには、地元を超える地元に根を張る夏が必要だ。こうした両極の短絡的な結びつきは、どのようにして可能になるのか。そのように考えていくと、地元への志向ということに、まだまだ汲(く)み尽くせない謎や深みがあることがわかってくる。
と述べている。ここで重要なのは(多分)「ローカル」と「グローバル」との関係だろう。グローバル化と「ローカル志向」との関係については、(全く別の側面ではあるが)「グローバル化と資本のフレキシビリティ」*5(『ソシオロジカル・スタディーズ』所収)でも言及していたのだった。
ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)

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ソシオロジカル・スタディーズ―現代日本社会を分析する (SEKAISHISO SEMINAR)

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