「ヤンキー」から遠く離れて

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20131112/1384222612に対して、


nessko*1 2013/11/12 13:36
佐久間正英からの提言(前編)」*2を読むと、彼らがいう海外のロックというのは、米英という英語圏のロックで、マーケットとしてはアメリカをイメージしておっしゃっているように受け取れます。
アメリカでは、ロックも音楽スタイルのひとつで、貧乏人がサクセスする手段のひとつですよね。ある意味、治安維持装置のひとつなのではないでしょうか。
英国になると、ちょっと日本と似た流れもあったのかもしれない。米国と距離がありますから。ある時期から英国風というか、英国流が出てきて、アメリカものとは別みたいになってしまう。


ある種のヒップホップのマッチョなかっこよさ、というのは、日本だと漢詩のかっこよさに通じるな、とは思っています。男向きのスタイルだし、それはあっていいですよ。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20131112/1384222612#c1384230969

ロックの場合、「米英という英語圏」が準拠点となるのは仕方がないことでしょう。ボサ・ノヴァの場合、常に伯剌西爾が準拠点となるように。問題は、日本の「ロック」が海外のとは「別みたいになってしまう」ということではないような気がします。同じか違うかということですけど、何処の国の「ロック」だってロックという共通のフォーマットに基づいているということでは同じでしょうし、また違わなければ、そもそもアメリカンとかブリティッシュとかジャパニーズとかチャイニーズといった国名形容詞を冠する必要もない。グローバル化が進む反面における、外国のもの、外国語のものは要らないよという一種の〈一国主義〉的意識の問題でしょう。それは音楽だけでなく、エンタメであれ純文学であれ、外国の小説があまり注目されなくなったというようなことにも表れているのではないか*3。そうした知的内需指向或いは排外主義(といっていいのかな)が存立するのは、或いはそれをベースにしたJ-POPがビジネスとして成立するのは、烏賀陽弘道氏が論じているように、1億人超のそれなりの購買力を有した、しかもフラットな市場の存在という偶然のおかげであるわけですよね(『J-POPとは何か』)*4。最近では、それがちょっと立ちゆかなくなった。
Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)

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漢詩のかっこよさ」。以前にもちょこっと考えたことがあるのですが*5、漢文の魅力っていうんでしょうか。一言でいうと、〈ぶっ壊れ〉感というんでしょうか。中国語としても日本語としてもぶっ壊れているという感じ。
また、

Talpidae*6 2013/11/12 16:12
引用された発言でちょっと気になるのは、あらためて聞くと、それほど日本のロックのクォリティが低かったとは思えないのですが、当時はなんかその差を大きく感じていたところはありますね。それから、日本語のロック云々の論争に決着をつけたのはある意味でキャロルだったということになりますよね。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20131112/1384222612#c1384240374
多分「クォリティ」ということではないんだろうと思います。佐久間さんも「四人囃子にしてもある時期はピンク・フロイドに引けをとらない演奏能力があったと思う」といっていますし。「彼らに比べると非常に脆弱というか、B52’sはメンバーが60歳を越えている今でも全米ツアーをやっているけど、プラスチックスがそこまで長くやる基本体力とか、悪い言い方をすると、そこまでバカになれないだろうと(笑)そんな差があると思うんです」とも言っていますよね。佐久間さんとは別のことをいうと、先進国/後進国構造というか、影響を与える/影響を受けるという対立があったのでは? (文系の学問でもそうだったと思いますけど)アンテナを張り巡らして、海の向こうの最新トレンドをいち早くキャッチして日本化(日本語化)した奴が勝ち、という面もあったわけですし。こちらの側に、どうせおいらは影響を受ける側だし、という構えがあれば、どうしても向こうの音との「差」は「大きく感じ」ざるを得ないということはあるんじゃないでしょうか。
キャロルの歌詞*7吉田拓郎が絶賛していたらしいのですが、決定的だったのはサザン・オールスターズだったんじゃないでしょうか。というか、サザンがブレイクした後では誰も英語で歌おうとしなくなった。


あと、「佐久間正英からの提言(前編)」で面白かったのは、


私個人としてはエレキギター以降、新しいものは出ていないと思っています。シンセサイザーの登場もエポックメイキングではなくてギターのエフェクターが進化した位のレベルの話で、エレキギターの登場でバックボーンになったことのような変化に比べると小さい事。ポストエレキみたいなものがどうなっていくか?これは非常に難しくてマンマシン・インターフェイスという意味ではシンセはギターほど成功できてない。キーボードの形態から抜けられず、色々なものは試作されているけど現状の開発の歴史上は上手くいってない。僕も色々考えてみたけど、肉体的な衝動をどう具現化するか?というところでシンセはギターに適わないんですよ。画期的なやり方で音をコントロールするものが出てくれば、ひょっとしたら新しいものが生まれる切っ掛けになるかもしれないですけどね。
という佐久間さんの発言。四人囃子の盟友だった茂木由多加氏はどうコメントするのかなと思ったのだが、茂木氏は既に2003年に亡くなっていたのだった。2012年に佐久間さんが自らのblogで茂木氏のことを回想している*8
また、「後編」*9だと、

単純に考えると生活してきた文化バックボーンが大きくて、日本のバンドをやっている子がアマチュアバンドでろくでもない箱のろくでもないPAの音で演奏して、自分達の親が聞いてきた音楽もたいしたことがないとなると、おのずとそうなってしまいます。ロンドンとかニューヨークの子は幼い時から、凄いバンドを目の当たりにしたり、些細な話ですが、ロンドンのノミの市で演奏している音とかでも凄くいい音なんですよね。日本の路上だとそういうのは凄く歪んで聞こえてくる、そこらへんの基本的な環境は大きいかなと思う。それが悲惨なことではないけれど、それに気づける子達は実際少ないですからね。だから、若い子に僕は、行きたい子は海外に早めに行った方がいいと言っているんです。