梅原北明(メモ)

承前*1

「エロ・グロ・ナンセンス」ということで。


橋本玉泉*2「「変態」を追究した編集者にしてジャーナリスト・梅原北明http://www.menscyzo.com/2011/09/post_3060.html


少し抜き書き;


そして梅原は、大正15年に会員制のセックス探求雑誌『変態資料』を創刊する。創刊号には「変態伝説考」などの評論やルポが多く掲載された。

 ところが、当時はエロ関係などご法度という時代。『変態資料』その他、梅原が編集発行する刊行物が次々に発禁となり、当局に押収される事態となった。

 さらに、発禁による経済損失を補うため、昭和2年(1927)から「変態十二史」の発行を開始する。これは、『変態広告史』『変態刑罰史』といった、変態に特化したシリーズで、発売前から予約が殺到する人気だった。

 一方、『文芸市場』にもセックスをテーマとした作品や文章が多く掲載されるようになる。性文学の古典とされるジョン・クレランド作『ファニー・ヒル』の全訳が掲載されたのをはじめ、ヨーロッパの主要な性文学作品が数多く紹介された。

 こうして梅原は、「変態モノの名編集者」としてその名は高まり、発行する雑誌や書籍は売れ行き好調だった。しかし、やはり内容が過激だったため、発売から3日から長くとも10日までに発禁・押収されてしまう。それでも梅原は萎縮するどころか、発禁も間に合わないほど次々に変態・エロ関係の出版物を発行し続けた。そのたびに、何度も罰金刑を受け、ひどい時には逮捕され投獄される始末だった。その様子を、当時の警視庁は「正気の狂人」と呼んだ。

 さらに昭和3年には、雑誌『グロテスク』を創刊する。「エロがダメというなら、グロでどうだ」という、反逆精神むき出しの雑誌だった。そして、この『グロテスク』も毎回発禁処分を受ける。そして、あまりに摘発や検挙が重なったため、「今度逮捕されたら、もう保釈は無理」と、友人や弁護士たちに忠告されるまでになった。そして実際、当局が動いているらしいと聞くと、大阪から長崎に逃げ、そこから上海に渡り、さらに満州に逃れた。そうして逃亡生活を続けながら、なおも国内と連絡を取って雑誌の刊行を続けたという。

 当局の検挙や弾圧もものともせず、エロ・グロをテーマとした刊行物を精力的に発信し続けた梅原だったが、終戦直後の昭和21年(1946)4月5日、発疹チフスで急死する。享年47歳。もし梅原がさらに生き続けていたら、戦後のカストリ雑誌時代に、どんな出版物を送り出していただろうか。

また、有山輝雄「梅原北明(うめはらほくめい)」*3

梅原北明(うめはらほくめい)

(1899―1946)

翻訳家、性風俗研究家。本名は貞康(さだやす)。ペンネームは吾妻(あづま)大陸など多数。富山市に生まれる。早稲田(わせだ)大学英文科中退。1925年(大正14)「芸術に対する迷信」打破を唱え、金子洋文(ようぶん)、村山知義(ともよし)らと『文芸市場』を発行。ダダイズムプロレタリア文学などとゴシップや変態資料とを雑居させた特異な文学運動をおこした。さらに『変態資料』『グロテスク』などを次々と創刊。大正末期から昭和初期にかけてのエロ・グロ・ナンセンス文化の一面を代表する。しかしその底部には独自の反逆精神と時代の病理を鋭く見抜く認識眼があった。また『明治大正綺談(きだん)珍聞大集成』など独特の視角からみた社会風俗資料集も編纂(へんさん)した。34年(昭和9)日本劇場支配人となる。

梅原北明を巡って例えば、


Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%8E%9F%E5%8C%97%E6%98%8E
梅原北明とその周辺」http://www.kanwa.jp/xxbungaku/Publisher/Senzen/Hokumei/Hokumei.htm
「変態雑誌出版王 梅原北明http://www.fic.i.hosei.ac.jp/~morimura/members/3rd/kumai/resume02.html