そこまで罵倒されていれば

AKB48については思ったよりも言及していたんだ*1
濱野智史*2前田敦子はキリストを超えた』という、かつてのジョン・レノンの放言を捩ったタイトルの本が出ていることは知っていたし、この前日本に帰国した時も成田空港の書店でも見たのだが、AKB48に対する私の偏見からか、立ち読みしようとも思わなかった。山形浩生氏はこの本を徹底的にdisっている*3


ごみくず。この本の理屈なら、長島茂雄が自分のアレで「巨人軍は永遠に不滅です」と言ったことをもとに、長島茂雄はキリストを超えたという説だって書ける。主張はすべて、かろうじて必要条件はあっても、十分条件皆無なので、信者以外には一言一句たりとも説得力ないよ。アキバ48を押し立てれば尖閣問題も竹島問題も解決だとさ。やれやれ。前著は少しいいと思ったけれど、今後ぼくはこの浜野の書いたものは目に入れないようにすることにした。本もラオスに捨ててきます。こっちの古本屋に売って純真なバックパッカーたちの精神汚染を引き起こしてはいけない。

そうそう、ぼくが本書でもう一つ耐えがたかったのは、もう本を捨てちゃったので正確には覚えてないが、序文の最後あたりにあった「この世には希望が全然なくて、だからアキバ48の与えてくれる希望が云々」というくだらない安っぽい絶望だった。世界は希望に満ちていて、もちろん完璧ではないけれど、だからこそまだ改善の余地があって、そしてそれはこの世界というマクロなものだけでなく、この卑小な自分自身にすら希望がある――それが見えない、あるいは見ようとしない人は、無能か怠慢か、よくもあしくもおめでたいか、そのすべてかでしかないのだ。

そもそも自分がちんころアイドルに入れ込んでることを正当化するために、世界の希望を否定しようとする本は、ぼくは本質的に卑しいと思う。ちんころアイドルにいい歳こいてはまるのは、それはそれでかまわない。それはもちろん、恥ずかしいことで、醜悪なことで、笑われて当然なんだけれど、でもそういう自分をそういうものとして肯定し、その恥ずかしさ自体を胸を張って肯定できるのが現代のよさであり、それに対して周囲も眉をひそめる程度ですませ、本当に石を投げたりはしない。それは世界の豊かさであり、それを可能にしてくれている世界の優しさであり、それ自体が希望だ。でも、浜野はそれを見ないで、自分の卑小さと醜悪さを正当化すべく、世界を絶望にひきずりこもうとする。それがこの本の本質的な卑しさの元でもある。

アキバ48なんて、そんな崇高でも偉大なものでもないのは、ファンたち自身がよく知っているはず。かれらは、自分たちにやっていることがつまらない何かの代用行為なのも十分に承知しているはず。それでも、ほとんどのファンは、自分たちがキモヲタであることを十分に承知しつつ、それを半ば自虐的に、なかば胸を張って受け止めているはず。そういう自分を正当化するために世間を貶め、へたくそなアイドル集団を実際以上のご大層な存在として祭り上げ、それを世間に押しつける必要があるなどとはまったく考えなかったはず。だって、そもそものコンセプトがご近所アイドルでしょ? ご大層でないのが身上のはずでしょ?

ここまでdisられていると、逆に興味をそそられて、立ち読みでもしてやろうかという人が少なからず出てくるのではないか。俺もそうだ。ところで、「ちんころアイドル」というのは俺の日本語の語彙にはなかった。
AKBといえば、〈峯岸みなみ丸坊主〉事件だが、赤木智弘*4AKB48は決して一般の論理に生きるのではない」*5で、小林よしのりが〈丸坊主〉を絶賛していることを知る*6。また猪野亨「AKB48の異様性の正体 峯岸みなみ氏は被害者ではない AKB48商法の加害者だ」*7。これは考えさせられるエントリー。しかし、「加害者」って誰に対して「加害者」なんだ?