「憲法改正」by 東

最近ルソーの「一般意志」についてメモ書きしたが*1、その際に参照したエントリー*2はそもそも東浩紀の「一般意志2.0」に対するコメンタリーであった。そのときは東浩紀の言説には言及しなかった。彼の言説について、ほかにもコメントしたいネタはあるのだけれど*3、ちょっと吃驚! の動向を知ったので、そちらの方をメモしておく。
中村礼治「東浩紀の奇妙な憲法改正試案」*4から;


哲学者・作家の肩書を持つ東浩紀がこの夏、憲法改正試案を発表するという。公表を前にきょうの朝日新聞009(5月1日付朝刊)でインタビューに答えている。それを読むと、「日本を尊重しろ」だの「天皇は元首」だの、奇妙なことをうたった改正試案であることがわかる。

 東はなぜいま憲法改正なのかを問われ、3.11後の政府の失政を目の当たりにして「もやは政権を代えている場合ではない。もっと基層の部分を変えなければならないことが明らかになった」と語る。2年半前の政権交代ではほとんど何も変わらなかったから、というのがその理由だ。だが、基層を変えるにせよ、表層を変えるにせよ、まず政権を代えることからしか何事も始まらない。震災が起ころうが、民主党が腰砕けになろうが、それは変わらない。東の言葉を借りれば、いまこそ「政権を代えている場合」なのだ。それが民主党の原点回帰という形を取るのか、政界再編という経路をたどるかはわからないにしても。

 東は「憲法を日本というコンピューターを使うためのOS(基本ソフト)」にたとえ、「だったら自衛隊がもう少しサクサク動く、国がうまく回るOSに入れ替えたほうがいいんじゃないか」と言う。だが、わが憲法の最大の取り柄は自衛隊がサクサク動かないようにしている9条の非戦・非武装の条項にある。東のコンピューターを真似た思考方法が気楽な結論を導いているように見える。

普通に右じゃん。東は再度田村理『国家は僕らをまもらない』*5とかを読んで立憲主義の復習をすべきだろうとは思う。ところで、彼の思考の変化は『東京から考える』という対談本における「ネーション」を巡る奇妙な発言*6から始まっていたのかと、今にして思う。 
国家は僕らをまもらない―愛と自由の憲法論 (朝日新書 39)

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東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

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東浩紀氏の憲法改正試論への疑問」というエントリー*7も東の「憲法改正試論」に対する批判。デリダ多文化主義多文化主義マルクス主義(「マルチカルチュアリズムは、絶対の真理としての無誤謬性の象徴に堕したマルクス主義の普遍主義への反抗と一体をなすものであった」) 、多文化主義新自由主義等について、(些か疑問はあるけど)興味深い言及を含む。