ひとつだった対馬(メモ)

旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三 (文春文庫)

旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三 (文春文庫)

佐野眞一『旅する巨人 宮本常一渋沢敬三』から;


宮本も述べているように、対馬は昭和二十年まで鎖国がつづいていたといってもよかった。
ロシアとの間に緊張が高まりつつあった明治三十三年、日本海軍は対馬海峡から朝鮮海峡への巨大艦船の通行を可能にさせるため、朝鮮海峡に通じる対馬の要衝の浅茅湾から対馬海峡側の久須保に抜ける運河を開削し対馬の上島と下島をはっきり分け、そこに長さ八十メートル、高さ三十メートルの鉄橋をかけた。対馬が元々二つの島から成っているという今に続く誤解は、この万関瀬戸の開削工事に淵源を発している。
明治三十八年五月、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃滅した日本海海戦でも、一部艦船はこの万関瀬戸の運河を通って出撃した。ちなみに、日本海海戦は、対馬の目の前で展開されたことから、世界的には対馬沖海戦と呼ばれている。(p.321)
第二次大戦中、対馬は日本地図から抹消され、つまりその地理的存在自体が軍事機密になってしまったという(鎌田慧『日本列島を往く(1) 国境の島々』)。
日本列島を往く (1) (岩波現代文庫―社会)

日本列島を往く (1) (岩波現代文庫―社会)

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081022/1224643930 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090319/1237492819 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100130/1264844308 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100209/1265682759