屋久島(メモ)

グローバリゼーションのなかの文化人類学案内

グローバリゼーションのなかの文化人類学案内

中島成久「環境と開発」(in 中島成久編『グローバリゼーションのなかの文化人類学案内』明石書店、2003、pp.259-283)から少しメモ。


屋久島を代表するものに縄文杉がある。ある記録を信じて幻の大杉を探し続けていた故岩川貞次氏によって一九六六年発見されたこの杉は、しばらくは発見者が名づけた「大岩杉」と呼ばれていた。岩川氏は六九〇〇年という樹齢を推定したが、九州大学のある研究者は七一〇〇年という樹齢を推定し、最終的には環境庁が「七二〇〇年説」を打ち出した。その根拠は、年輪が正確に分かっている屋久杉の口径と樹齢との相関関係から演繹して、七二〇〇年という樹齢が決定された。だが、その前提には縄文杉は合体木とか、二代杉、三代杉ではないことが必要である。縄文杉は次第に屋久島の象徴として有名になり、詩人、山尾三省が「聖老人」という縄文杉賛歌を七六年に書いて以来、ユンクのいう「原型」的イメージを付与されるようになった。
縄文杉の正確な樹齢は決定できない。その内部が空洞化しているからだ。それでもいくつかの証拠から七二〇〇年説は根拠がないことを主張できる。今から約六三〇〇年前に鬼界カルデラ〔現在の鹿児島県三島村付近を中心とする火山〕が大爆発した。この時の火山灰は広く日本列島を覆い、「アカホヤ層」という特徴的な地層を形成し、考古学の年代決定の大きな根拠とされている。屋久島全体がこの時大火砕流に襲われ、屋久島の自然は大きな影響を受けた。もし縄文杉の樹齢が七二〇〇年であると、樹齢一〇〇年あまりに生長していたはずの縄文杉は、この大火砕流はまず生き残れない。次に、「炭素一四法」を用いた縄文杉の樹齢測定がなされた。結果はバラバラで、最高二一〇〇年程度の樹齢でしかなかった。陽樹である杉はすっと大地にそそり立つのを特徴としているが、縄文杉は杉とは信じられないぐらい寸胴な姿をしていて、その異形さが際立つ。こうしたことから縄文杉は二〇〇〇年ほどの樹齢で数本の合体木という説が出されている。
屋久島に生える天然杉のうち、樹齢七〇〇〜八〇〇年以上の杉を屋久杉という〔俗に一〇〇〇年以上を屋久杉と呼んでいるが、それは切りが良いのでそういわれているだけだ〕。それより樹齢の若い杉を小杉という。これは樹種の違いではなく、形状、年輪の緻密さなどから区別される。長い年月のうちに台風や落雷などに晒されるので屋久杉には、幹が途中で折れ、樹枝のない欠損体が多い。
屋久島には縄文杉に代表されるような巨木に対する信仰があったのではないかと推測されるが、それは間違いである。屋久杉と小杉の区別は、禁じられていた奥岳域の杉伐採が本格的に始まる江戸時代につくられたようだ。地杉〔平地に人間の手で植えられたもの〕と岳杉〔自然に生長した杉〕という分類は今でも使われる。その当時伐採された岳杉は、山中で平木などに加工されてから、人力で麓に運ばれた。良材をとるという目的からすると、内部が空洞化し、瘤が発達した屋久杉よりは、樹齢300〜五〇〇年の小杉の方が圧倒的に優れていた。そのため江戸時代には小杉が好んで伐採された。縄文杉などの巨大な屋久杉が残されたのは、それが巨樹であり神聖であるから伐採されなかったのではなく、単に良材が採れなかったからであった。
屋久島には「前岳」「奥岳」という言葉がある。周囲一三〇キロの屋久島の海岸平野部からいきなり海抜八〇〇〜一三〇〇メートルの前岳がそびえている。古来人間の活動はこの前岳部に限られていた。里山といった場所である。奥岳とは、前岳に囲まれた山岳部のことである。この奥岳には江戸時代まで人の立ち入りが禁じられていた。シカやサルを追ってたまに入ってくる猟師や、「岳参り」という春秋年二回の参詣登山で人が立ち入る以外は、禁断の世界であった。
岳参りとは、常世へと続く海岸で身を清めた人々〔初潮を過ぎた女性は山が汚れるという理由で参加できなかった〕が、村の前岳と奥岳に登る。彼らは山で一、二泊し、石楠花の枝を手折って下山し、村境で「さかむかえ(境迎え)」を受けた後、日常世界に戻った。屋久島で「山の神」とは日本本土で広く見られる農耕神的なものではなく、それは山岳霊というほどの存在であった。森は巨木があるから神聖視されていたのではなく、奥岳全体が一つの神聖な空間と見なされていたから、森と山は神聖なのであった。山姫、ヤマワロ(山和郎)、オンジョ(老猿)などの超自然的な存在が跋扈する脅威の空間であった。(pp.275-278)

屋久島は古来海上交通の目印として、また水や食糧の補給基地、悪天候時の避難港として大きな役割を果たしてきた。そのため平安末期に式内社の益救神社*1が造営された。屋久島はこうした鎮護国家的な神社信仰の重要な場所と考えられてきたのであるが、そうした位置づけは屋久島に住む住民のものではないだろう。むしろ、古来種子島などにおかれていた屋久島を遙拝する「遙拝所」などの方が、屋久島の信仰上の位置付けには重要である。つまり、幾重にも重なった山塊全体〔八重岳〕が、天と地それに海を結び付ける「宇宙樹」として存在した。『古事記』に、現在の堺市富木*2にある木があまりにも大きいので、朝日に当たったその影が淡路島まで及び、夕日に当たるとその影は大阪府東部の高安山を越えた、と記述されている。こうした天をも貫く木が神話時代には考えられており、それが宇宙樹である。だから屋久島全体を一つの木、あるいは山岳と考えると、岳参りのような参詣登山がなぜ行われるようになったかがよく理解できる。(p.279)
屋久島を含む古代の「南島世界」については、中村明蔵『隼人の古代史』第7章「ハヤト国と南島世界」に記述がある。それによると、「屋久島」という島名は「ヤコウガイ」という貝と関係があるらしい。ヤコウガイの古称は「ヤクガイ」。その貝殻は酒器に加工され、「夜久貝」「夜句貝」「益救貝」「屋久貝」と漢字表記されていた。しかし屋久島ではヤコウガイは殆ど獲れない。現代においてヤコウガイが多く採取されているのは沖永良部島である(pp.202-203)。さらに、古代において「ヤク」とは(沖縄を含む)南島世界全体を指していた(pp.172-175)。何故「ヤク」が南島世界全体から特定の島だけを指すようになったのかはわからない。
隼人の古代史 (平凡社新書)

隼人の古代史 (平凡社新書)

*1:「益救」は「やく」と読む。

*2:「とのき」