隠れてしまった著者(メモ)

「「事実」はいかに書かれるべきか」http://d.hatena.ne.jp/Portunus/20111215/p1


久田恵のルポルタージュ本『ニッポン貧困最前線』を巡って曰く、


ケースワーカーという、戦後の生活保護行政の現場を支えて来たひとたちを主人公に据えたルポルタージュ

大層面白い本ではある。その理由のひとつとして、小説形式の採用が挙げられるだろう。ケースワーカーを主人公に据えた三人称形式で、ケースワークの現場や事件の再現を行っている。取材者である久田恵はプロローグと第四部の終盤、それとあとがきにしか登場しない。著者は作中では一貫して黒子として、取材対象の発言を元に構成した小説の語り手として姿を隠している。

また、

(前略)ここでの小説という形式は、読み手に行政官の立場を自己同一化させる為だけに利用されている。そしてそれはある一定の効果をあげているし、成功もしていると思う。
ニッポン貧困最前線―ケースワーカーと呼ばれる人々 (文春文庫)

ニッポン貧困最前線―ケースワーカーと呼ばれる人々 (文春文庫)

「小説形式」という用語には若干の疑問もある。また問題は「著者」が「姿を隠している」ことだけでなく、寧ろそれによって、登場人物の感覚、感情、思考といった主観的(一人称的)意識がそのまま三人称の文において再現されているかのような錯覚を読者に喚起するということなのだろう。「著者」のお隠れはそのための条件である。文学史(?)的にいえば、日本語においては(多分)沢木耕太郎辺りを嚆矢とし、山際淳司のスポーツ・ノンフィクションを代表とするような、あのノンフィクションのスタイルが問題とされることになるのか。
久田恵のこの本を一度言及したことがあるのだが*1、勿論上記のエントリーで問題にされている札幌の母親餓死事件についての久田の記述が相当アレなものだということは知っていた。また久田(というかその登場人物)に批判され、その文庫版「あとがき」には久田への反論も含む水島宏明『母さんが死んだ』も読んでいた。「ガザミ」氏は久田と水島のけっこう詳細な比較を行っている。それはともかくとして、そのスタイルにおいて『ニッポン貧困最前線』とは対極的であるといえる『サーカス村裏通り』を読んで面白かったという記憶があったので、『ニッポン貧困最前線』を読んで、その内容以前にスタイルの変貌ぶりに驚いたということはあったのだ。
サーカス村裏通り (文春文庫)

サーカス村裏通り (文春文庫)

ところで、『ボウリング・フォー・コロンバイン』*2にせよ『華氏911*3にせよ、マイケル・ムーアが(少なくとも映画作家として)信用できるのは彼がカメラの後ろに「姿を隠している」ということはないからだ。それから、あの札幌の母親餓死事件は所謂バブルの前夜であった1986年に起こっているということは記憶に留めておく必要があろう*4

See also http://d.hatena.ne.jp/Tez/20060627/p1