「フジテレビ文化」の「終焉」?

承前*1

「フジテレビ」http://d.hatena.ne.jp/nessko/20110904/p1


曰く、


何故、抗議の的になったのが、フジテレビ、だったのか。

人気のあった韓流ドラマ「冬のソナタ」「チャングム」を放送したのはNHKだ。韓流じゃなくて日本製を放送しろ! という抗議なら、デモはNHKに向かってもおかしくない。しかし、デモに参加した人たちがネット上で書いているものを読むと、韓流以前にフジテレビが癇に障るらしいのだ。ブームのゴリ押しだと文句をいいたくなる面が、NHKには薄いが、フジテレビにある、ということだろう。

そうすると、あのデモは、韓流ブームに対する抗議というよりも、フジテレビというテレビ局に対して「もういいかげんにしろ!」と言いたくなっていた人がついに立ち上がった、という面が大きいのではないか。

マンザイブーム以降、80年代バブル期の、テレビ文化をリードしたのがフジテレビだったかなあ、そんなことを思い出す。バラエティの形態が変わり、楽屋オチを視聴者も積極的に共有するのがあたりまえになり、女子アナが安上がりの女性タレントのようになり、「笑っていいとも!」に象徴されるテレビ村的社会になじめないとイナカモノと嘲笑される、あの雰囲気。80年代当初は、従来の感覚では邪道ではあっても、それまで続いていた70年代的な価値観への反発というのはそれなりに意味もあったのだが、そんなものはすぐに消え、80年代フジテレビ的価値観ごり押しが大衆文化を制圧し、フジテレビの色が世間を染めていった。

書いていて、これはちょっとオーバー過ぎるか、と思いもするが、民放の中でも傍流だったフジテレビ流儀が主流になってしまったのが80年代で、その影響は他局にも及び、今でもテレビのバラエティ番組に残っている。観る側に番組内の仲間内意識を共有することを暗黙のうちに要求する、あの世界。

フジテレビに抗議に向かった人は、もうそんなテレビの世界の空気に自分を同調させるのはいやだ! 同調せよとテレビに強制されるのはいやだ! そう訴えたかったのか。

だったら、フジテレビは、このデモを無視してはならない。嫌なら見なければいい、で片づけるのなら、有料ケーブルテレビに転身するべきだ。

今年はマンザイブームを起こした横澤彪が死去し、マンザイブームから成り上がった島田紳助が引退した。

フジテレビ文化なるものがあったのだとしたら、それが完全に終焉するのが今年なのかもしれない。

ありましたね。『オールナイトフジ』とか『夕やけニャンニャン』とか*2北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』第3章「パロディの終焉と純粋テレビ」辺りを再読してみるべきか。ただ「フジテレビ文化なるもの」が純化して〈しゃれにならなく〉なってきたのは1990年代に入ってからのことだったと思う(北田氏の本だと、第4章、pp.176-184辺り)。TVがイヴェントを自作自演的につくりだして、勝手に盛り上がりながら、その盛り上がりを万人の盛り上がりとして「ごり押し」するという傾向は日本に限らず1980年代以降顕著になってきたように思う。しかし、TVの「ごり押し」力も既に限界に来ているのではないだろうか。TBSは亀田兄弟*3をスターとして製造しようとしたのだろうけど、その意図は直ぐに見抜かれて、〈万人の盛り上がり〉をもたらすことはできなかった。「フジテレビ文化なるもの」の「終焉」というのは現在の地上波を中心としたTV体制の「終焉」ということでもあろう。「テレビの世界の空気に自分を同調させるのはいやだ」ということはいいとして、問題なのは、「フジテレビ文化なるもの」の後に来るべきもの、新しい何かについて何も提示されておらず、それと関連して、「フジテレビ」を批判するロジックも素朴だということだろう。http://d.hatena.ne.jp/Asmodeus-DB/20110903/p1のコメント欄に、「稀少な資源である電波を勝手に使っておいて「嫌なら観るな」もなにもないと思うけどなぁ」、「電波は国民の財産であり、テレビの私物ではない。「嫌なら観るな」は通用しない」という意見があった。たしかに、地上波しかない時代にはこの理屈は意味を持っていた。「稀少な資源」であるのは「電波」ではなくて周波数帯ではあるけれど。稀少資源としての周波数帯の合理的・公正な分配と一国の文化水準の維持への配慮ということで、放送事業に対する国家の強い介入・規制は正当化されていた。しかし、BSやCSやケーブル、或いはインターネットでの番組配信が乱立する多チャンネル状況では稀少資源としての周波数帯という前提は崩れてしまう。「フジテレビ文化なるもの」の「終焉」の向うにあるのはそのような状況なのだ。その素朴さは多分ナショナリズム的なパッションによって補填されているのだろうけど、現代のナショナリズム自体が(多分どの国でも)地上波の全国ネットワークというTV体制に支えられているといえるだろう。つまり、ポスト「フジテレビ文化」の世界においてはナショナリズムの土台も変容せざるを得ない。「フジテレビ文化なるもの」は遅かれ早かれ、「デモ」があろうがなかろうが、死ぬ。だから、ポスト「フジテレビ文化」はどうあるべきかを議論した方が知的にも実際的にも実り多いように思えるのだ。
嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)