「誰にでも通じること」って「尊い」の?

「誰にでもわかることの大切さ」http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20110821/1313935955


最後の一節を引用してみる;


非常口のピクトグラムが世界中で使われるようになったのは、言葉の壁を越えて誰の目にも明らかなメッセージを与えてくれるからだ。「誰にでも通じること」は本当はすごく尊い。逆に、自分の言葉だけしか話さず、その言葉を理解できない人間を排斥するのは、傲慢で幼稚な態度だと言うよりほかない。
たしかに「非常口」に限らず交通標識などに使われるピクトグタムやアイコンはわかりやすくなければならない。何故か。それは標識の目的が〈命令〉だからだ。「非常口」だったら、(火事のときは)そこから逃げろ! つまり「非常口」の標識は火事の際にそこから逃げるという斉一的な反応(行動)を産出することを目的に設置されている。実際ピクトグラムを見てこれってどういう意味だっけという疑問が噴出してしまったら、逃げるという反応(命令への服従)は達成されない*1。マニュアルの類がわかりやすくなければならないというのも同様な理由による。 マニュアルというのはかくかくしかじかのことをしたければかくかくしかじかの操作をしろ、かくかくしかじかのトラブルに遭遇したときはかくかくしかじかの対処をしろという〈命令〉の集積だからだ*2
しかし、それを(言語)表現或いはコミュニケーション一般に拡大していいのだろうか。(言語)表現或いはコミュニケーション一般を〈命令〉に還元していいのだろうか。そうすべきでないと考えるし、実際の多くの(言語)表現或いはコミュニケーションは〈命令〉のために行われているわけではない。日常会話の目的というのはおしゃべりを続けること、相手の言葉に何でもいいから別の言葉を接続することだといえるだろう。では、日常会話よりも高度だといわれている文学などの〈非実用的言語〉の場合はどうだろうか。思うに、それは受け手に特定の反応を起こさせることではなく、受け手の記憶や知識を刺戟してその思考や想像力を活性化することだろう。そのように活性化された思考や想像力は再び言葉を生み出すこともありうるので、コミュニケーションの目的はコミュニケーションの継続であるということはこの場合でも通じることになる*3。〈命令〉を目的とするコミュニケーションがわかりやすく「誰にでも通じ」なければいけないのは思考や想像力の活性化を阻み、直ちに反応を惹き起こさなければならないからだ。逆に言えば、わかりやすさや「誰にでも通じること」というのは思考や想像力の活性化にとっては障害になるのである。まあ東浩紀的世界(『動物化するポストモダン』!)*4においてすべての表現は〈萌えろ!〉という〈命令〉に還元されるのかも知れないけど、私はそのような世界には住んでいないし、住みたいとも思わない。
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

ところで、どうしてこんなに難解な文体で書くんですかという質問に対して、ジャック・ラカン先生がDQNに読ませないために決まってるだろうといとわかりやすく答えたという話を読んだことがあるのだけれど、また例によって出典は失念。
上のエントリーから;

だから本当は、問題の建て方そのものを問い直すべきなのだ。批評家の多くは「その作品はなぜ面白い(と私は感じた)のか」という問題設定から思考をスタートする。しかし本当なら「その作品がみんなの心を掴んだのはなぜか」という疑問から考え始めるべきなのだ。それがヒトを理解するための第一歩になる。
あなたが卒論の指導をする社会学の先生だったと仮定しよう。『もしドラ*5をテーマに卒論を書きたいという学生さんがやってきて、自分にとって『もしドラ』が何故面白いのか、感動的なのか、或いは何故つまらないかということばかり語ったら、誰だって「「その作品がみんなの心を掴んだのはなぜか」という疑問から考え始める」よう指示して、来週出直して来いというだろう。しかし、そうした社会学的な読みだけが読みではない。そもそも「面白い」というのは空虚な言葉で、それに対する反応は2通りしかありえない。「「その作品はなぜ面白い(と私は感じた)のか」という問題設定から思考をスタート」しても、自分の感じた「面白」さに反省的な眼差しを向けるのであれば、読者の思考や想像力を活性化することにはなるよ。