「死」から始まる物語

あやめ 鰈 ひかがみ (講談社文庫)

あやめ 鰈 ひかがみ (講談社文庫)

松浦寿輝「あやめ」(in 『あやめ 鰈 ひかがみ』)の冒頭;


木原が秋葉原税務会計事務所を出て総武線のガード沿いに駅の方へ戻ってゆくうちに夕闇がますます濃く深くなり、空気がしんと冷えて耳朶が痛いほどだった。車道に出て、交差点の信号が替わりかけていることに意識のどこかで気づいてはいたようだがそのままぼんやりと足を踏み出し、そのとたん角を曲がって突っこんできた車にはねられ路上に叩きつけられどうやら木原は死んで、しかしそれでもゆらりと立ち上がり昭和通りをとにかく渡りきることは渡りきった。向かいの舗道に足を掛けよいしょと躯を引き上げながらこれが三途の川の対岸かとうっそり苦笑する。それから上野の喫茶店で斐川と落ち合う約束はたしか六時だったなと改めて自分に念を押し、このまま昭和通りをゆっくり歩いていっても十分間に合うはずで、わざわざ秋葉原からほんの一駅電車に乗るには及ぶまいと考えそのまま立ち止まらずに歩いていった。ブレーキを激しく軋らせながら小型トラックが止まったのにもそれに続いて人々がわらわらと駆け寄ってくるのにも背を向けて、歳末の買い物で賑わう電気街の舗道の人ごみを縫いながら後も振り返らずそそくさと離れてゆく。ほどなく救急車だかパトカーだかのサイレンが遠い鳥の悲鳴のように背後からきれぎれに伝わってきたがそんなことももう遠い他人事のようで何の感慨もない。(pp.9-10)
今書き写しながら気づいたのだが、「遠い鳥の悲鳴」、「遠い他人事」と「遠い」が反復されている。この短篇の鍵言葉のひとつは「除籍」か。
「うっそり苦笑する」。最近覚えた笑い方に、「ヒャッハッハッ…」(菅直人 but perhaps fabricated by 産経)というのがあった*1。これも「苦笑」?