「血管」

あやめ 鰈 ひかがみ (講談社文庫)

あやめ 鰈 ひかがみ (講談社文庫)

松浦寿輝「鰈」(in 『あやめ 鰈 ひかがみ*1 )の


地下鉄とはたぶん東京というこの巨大な生き物の体内を走っている数多の血管の網の目なのではないだろうか。それはあちらこちらで分岐し合流し再分岐し再合流し、この途方もない都市の怪物が生きつづけるのに必要な栄養を躯の各部に供給し、老廃物が出ればそれは運び去り、そんなふうに絶え間なく運動しつづけている。土岐はその血管の一つの中で血の流れに身を委ね、流れ流れてゆくうちに、たぶん神谷町と築地の間のどのあたりかで血の流れが滞留している箇所があって、そこに囚われて脱け出せなくなってしまった。きっとそういうことなのかもしれない。なるほど電車は轟々と音を立てて走りつづけているようではある。そのようではあるけれどもそれはただ見せかけだけのことで、きっとどこかの端と端とがループ状に結ばれて、そうして出来た閉じた回路をぐるぐる、ぐるぐる回りつづけているだけなのに違いない。それともこの電車は血管のネットワークそれ自体の外へ弾き出され、どこにも還り着きようもないまま、何処とも知れぬ彼方へ遠ざかりつつあるのだろうか。奈落の底へ向かって逆落としに墜落しつつあるのだろうか。(p.127)
というパラグラフには違和感がある。「鰈」という中編の中でここだけ浮いてしまっている感じだ。勿論、「地下鉄」=(東京の)「血管」というのは巧い比喩だとは思う。ただ、「鰈」は一貫して主人公の「土岐」という男の視点から書かれているのだが、この「土岐」は、この中で明かされているそのキャラクターからすれば、上のような語りをする筈はないのだ。特に、「ループ状」とか「ネットワーク」という言葉をこいつが使用することは考えられない。「ループ状」というのは、「あとがき」によれば、この『あやめ 鰈 ひかがみ』という本の構成に関わるコンセプトであるらしい。とすれば、上に引いたパラグラフで「だろうか」と思考しているのは「土岐」ではなく〈作者〉だということになるのか。
ところで、「土岐」はずっと鰈の入ったアイスボックスを携帯している。東京は「巨大な」(マクロな)「鰈」であり、アイスボックスに入った鰈はミクロな「東京」であるという奇妙な入れ子状態が現出することになる。