社会システムとしての「利権」構造

「利権」というとやはり人聞きが悪い。権益だったら少しは中立的になるか。
さて、


http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20110429


河野太郎*1


Q:なぜ、合理的に説明できない原子力発電が推進されてきたのか?

日本の原子力は全体が利権になっている。電力会社はとにかく地域独占を崩されたくない、送電と発電の一体化を維持したい。それを守ってくれる経済産業省の意向を汲む、天下りをどんどん受け入れる。経済産業省にしてみれば、前任者のやってきたことを否定できずに来た。原子力、核、放射線と名前の付いた公益法人独立行政法人、山ほどある。そこにお金を上手く回して天下りさせる。電力会社も広告宣伝費で協力金を撒いてきた。自民党献金を受け、パーティ券を買ってもらった。民主党は電力会社の労働組合に票を集めてもらっている。学会も電力会社から研究開発費をもらい、就職先を用意してもらってきた。さらに政府の意向に沿った発言をしていると、審議会のメンバーに入れてもらえる。マスコミは広告宣伝費をたくさんもらって、原子力政策の批判はしない。みんなが黙っていれば、おいしいものがたくさんある。そういう状況が続いてきた。
http://news.livedoor.com/article/detail/5525056/?p=2

という発言が採り上げられ、河野氏が批判されている。彼は原発を「やたらと「利権」「癒着」の論理で批判している」。また、「利権」と「今回の事故と因果関係があるかどうかは不明である」と。しかし、この批判は的を外していると思う。先ず引用された河野氏の発言は福島原発の事故について語っているのではないからだ。質問も「なぜ、合理的に説明できない原子力発電が推進されてきたのか?」となっている。ほかの文章を読んでも、河野氏が「利権」ということで語ってきたのは、何故原発が推進されてきたのかという一般的な国策の問題であって、個別の事故のことではない。「利権」があるから事故が起きたという命題が成り立たないことはいうまでもない。事故は施設への物理的ダメージとそのシステムの異常な作動によって起きるわけだから。ただ、「利権」が事故に関係していないこともない。
以下できるだけ価値中立的に述べてみる。「利権」構造というよりも〈原発体制〉といった方がいいだろう。「原子力村」という揶揄もあるが、問題はそれがあまりに閉じた社会システムになっていることだ。政府、電力会社、政治家、学会という各サブシステム間の出力/入力の循環はパーソンズAGILを使って図式化できるのでは? ここで問題なのは、反対派を初めとする外部の声がシステムの安定・存立を脅かすノイズということになってしまい、そのようなものとして処理されてしまうということである。また、(精神分析のいう)人格に喩えてみれば、エスと自我だけあって超自我がないということになる。本来なら超自我として機能すべき原子力安全委員会も内在化されて自我の一部として組み込まれてしまっている。また、原子炉のシステムに喩えてみると、〈原発体制〉は制御棒や冷却装置を欠いているということだ*2。だから、先ず必要なのはシステムの内部を攪乱すること、システムにノイズではなく声として認識させることなのだろうと思う。


http://d.hatena.ne.jp/potato_gnocchi/20110429/p1


これも河野インタヴューを採り上げている。


「政治あるところには必ず利権があります」というのは或る意味において正しい。政治学理論をここで復習する余裕はないけれど、政府が再分配する諸資源をより多く自分たちの方に引き寄せるために各利益集団がロビー活動などに鎬を削るということは(その是非はともかくとして)現代の民主国家における政治の重要な側面をなしているということはたしかだろう。しかし、その利権はここで問題にしている「利権」構造とは違う。それは関係者の間で循環的な相互依存関係が構成されてしまっているということである。勿論、「需要者」に責任があることは言うまでもない*3。しかし、その循環的な相互依存関係から見れば、「需要者」などはシステム外部の環境ということになるだろう。