「白昼夢」(メモ)

承前*1

新書479学問の春 (平凡社新書)

新書479学問の春 (平凡社新書)


山口昌男『学問の春』からのメモ。
ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』の「私は二十歳代の終わりまでは手をつけられない幻想かであり、いつも変わりなく白日に夢みる男だった」(中公文庫版p.461、『学問の春』p.101に引用)という文を踏まえて曰く、


白昼夢ね。これもだいたい十代から二十代にかけては世界のどんな文化でも人間の精神に異常をきたすということがおこる。ちょうどその年齢ごろに身体の細胞が全部入れ替わるような時期があるから、何か突飛な行動に出る人間が多くなるというのは文化的に限定されていなくて、どこにでも現れる現象である。ちょうどみなさんの多くはそういうふうに発狂すべきときに、試験勉強でほとんど狂ったように勉強させられているから、発狂の機会を得ないで大学に来ちゃったというところもある。
かつては各地に文学青年とか、絵を描く青年とか、まあちょうど人生の変わり目に発狂したみたいなのがいた。そういう青年の精神的に不安定な時期に関する文化について述べてみれば、たとえばシベリアでいうとシャーマンという、幻覚体験をトレーニングによって自ら招き寄せて神霊や死者とコミュニケーションし、予言や治癒を行う呪術的な専門家がいます。シャーマンという語は、東部シベリアのツングース語などで呪術師を意味する「サマン」に由来している。(略)
日本でもシャーマンというのは東北地方のイタコをはじめとしていろんな形で口寄せをする巫女の伝統が残っている。沖縄に行けばユタという神のお告げを代わって言う人たちがいる。お告げを伝えるためには、脱魂(エクスタシーecstasy)や憑依(ポセッションpossession)と呼ばれるトランス状態になっていくことが必要である。であるから、シベリアでは十代から二十代に移りかわるころにちょっと突飛な行動に出る若者を、神の命令だといって森の中に連れていって先輩シャーマンたちが訓練する。この若者にさまざまな知識や暗示を与えて、そういう中で新しいシャーマンは教育され、社会にまた戻ってくる。文化の中で「狂気」に一定の地位を与えることがある程度制度化されていたと言えるわけです。
普通、ヨーロッパでも日本でも詩人のもつある種の幻想性は、シャーマンの経験の遠いこだまを宿している、といわれている。まあ、このホイジンガ個人は別にシャーマンではないけれど、学者になっていく途中で若い時期にシャーマニスティックな体験をしていたと自分で言っているのは面白い。(後略)(第四講「雑学とイリュージョン――ホイジンガの学問的青年期」、pp.102-103)
ホモ・ルーデンス (中公文庫)

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

シャーマニズムについてはエリアーデの大著を読んでいないので、取り敢えず佐々木宏幹先生の『シャーマニズム』、『憑霊とシャーマン』、『聖と呪力の人類学』*2、Anna Reid The Shaman’s Coat: A Native History of Siberia*3を再びマークしておく。そして、Felicitas D. Goodman Ecstasy, Ritual, and Alternate Reality: Religion in a Pluralistic World
シャーマニズム―エクスタシーと憑霊の文化 (中公新書 587)

シャーマニズム―エクスタシーと憑霊の文化 (中公新書 587)

憑霊とシャーマン―宗教人類学ノート

憑霊とシャーマン―宗教人類学ノート

聖と呪力の人類学 (講談社学術文庫)

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The Shaman's Coat: A Native History of Siberia

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Ecstasy, Ritual, and Alternate Reality: Religion in a Pluralistic World

Ecstasy, Ritual, and Alternate Reality: Religion in a Pluralistic World

さて、このネタは第七講「文化は危機に直面する技術」でも採り上げられている。

(前略)危機っていうのは、危険なことがどこかから降ってわいてきたから危機なのではなく、一貫性や体系性を備えているようなふりをしている組織や制度が、潜在的にすでに抱えている危険が表面化するということなんです。
であるから、たとえば大学も危機を持っている。青年期にある多くの大学生もクライシスを抱えている。危機が制度的なものである場合もあり、個人的なものである場合もある。しかしながら、その危機に直面する技術をつねに養っておく。技術ということが重要なので、文化はそういう危機に直面することを助ける、まあ制度とはいわない、もっと広い創造的な仕掛けであるということができる。
(略)シベリアで一人の青年がシャーマンに成っていく過程というのはある程度わかっている。それはシャーマン的な素質が、青年期に特有の危機を通じて現れてくるんですね。青年というのは潜在的に不安定さとか。いろいろな精神的な問題、身体的な問題を抱えている。生物学的にも細胞がほとんどすべて二年ぐらいの間に作り替えられていく時期で、身体の外見は同じように見えているけれど、一種の崩壊の危機というのを内面的に孕んでいるわけです。青年になって現れてくるセックスの問題もあるし、そういうふうなものに直面する技術は、正面切って誰も教えない。シベリアでは感受性の強い青年があるとき森の中に消えてしまう。するとそこでは先輩のシャーマンが待ち受けていて彼にさまざまな知恵や試練を与える。青年は幻覚状態の中で、精霊によっていったん殺されて身体をバラバラに引き裂かれて、その後また生の世界に帰ってくる、という旅を行う。こうして彼は正式にムラのシャーマンになる。昔は、たとえば日本でも、農村には青年式(sic.)というイニシエーション・セレモニーがあって、若者小屋に先輩といっしょに閉じこもって、そこで先輩はいろんなことを教える。肝試しのような死と再生の疑似体験からセックスのことまで教えたりする。普段と違う雰囲気のなかで生活をともにすることで精神的な危機が克服されるチャンスはあった。(pp.176-177)
そして、「一つの若者小屋の延長」としての近代日本の軍隊。「青年たちを集めて」の「徹底的なテロリズム教育」と「鬼軍曹」による暴力。「青年期の危機」の「暴力的な恐怖」による「克服」(p.177)。例えば、〈ブラック企業*4での労働体験は現代の若者にとって通過儀礼(成人儀礼)として機能しているのかどうか。因みに、学校、「学」という漢字は(白川静先生によれば)そもそも貴族層の青少年を籠もらせる若者小屋を象形するものだった(『漢字』)。
漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)

漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)

通過儀礼としての「学生運動」;

最近の学生はおとなしいと言われているが、一九六〇年代には大学で学生運動が非常に盛んになったことがあります。彼らはヘルメットをかぶって警視庁第三機動隊と衝突して、それでこん棒で散々殴られるという恐怖の体験をやった。しかしそれは、非常にある種の充実感を伴った出来事で、後になってみれば懐かしくもなる。それで今ぐらいになると、そのころいっしょに殴りあっていた警視庁第三機動隊の連中と全共闘や何かのリーダーだったメンバーが集まって懇親会をやっている。そのくらい特別な体験を共有したという思いになってくる。学生運動は一つの青年式の形式とも考えられるし、文化の中の機能であるという一面をもっていたのではないか。(略)危機というのは文化の底に潜んでいるものである。そういう内にある危機にあえて直面することによって、人間でも文化でも、今度は外から現れてくる危機に柔軟に対応する能力を身につけていく。
(略)学生運動は一種の演劇や遊戯のようなものである。(略)「二つに分かれて競う」ということ。真剣にやっていた人は遊びでないと思うかもしれないけれど、そこには一種の演劇性があって、要するに何ものかを演じているわけですね。無理をして自分を大きく見せたり違ったものに変身して巨大な敵にぶつかっていったりする・だから素顔でやらないで、学生たちは自分の顔を隠す。手拭いとヘルメットの間で目しか出さないから、自分の普段の顔は隠れて仮面が顔になってくる。そうすると、自己意識が日常性から離れてより高い次元のところまでエレベートする。(pp.178-179)
イニシエーションについては、取り敢えずエリアーデ『生と再生』、またJ. S. La Fontaine Initiation: Ritual Drama and Secret Knowledge across the Worldをマークしておく。
Initiation (Pelican S.)

Initiation (Pelican S.)

「危機」とアートについて;

(前略)現代芸術というのが作家が個人として直面している新しい世の中の姿、つまり自分の中で潜在的に感知される危機の部分に「かたち」を与える行為だということです。作家はその危機の性質を時代に先駆けてキャッチしているのかもしれない。その結果、普通に理解されている言語、つまりこの形はこういう意味を持つとか、そういう世の中に通用しているロジックで語ることができないから、現代芸術の作品は途轍もなく変わっていて、エキセントリックであると考えられる。
けれども、作家個人の危機克服の方法というレベルにまで作品を見る側の人が近づいていくことができるならば、その問題を共有し、それに対する批評をするという形で、制作するものと鑑賞するものとのあいだに対話的な関係が成り立つわけです。したがって現代芸術は、一番先端的な、文化における集団的な危機管理の手段でもある。すぐ先の未来というのは基本的にはそういう「危機」の性質を持っている。いまだ形にならないものを「かたち」にしていくことによって解決する、これも一つの創造的な技術です。(pp.182-183)