阿久根市から何処かへ

『写真で見る阿久根市の現状ー独裁政治の悲劇ー』http://d.hatena.ne.jp/akune_genjo/


鹿児島県阿久根市竹原信一*1一派の「独裁政治」を告発するblog。特に、阿久根市の商店街や公共施設の「壁画」を採り上げたエントリーに対する反応が多いようだ;


http://d.hatena.ne.jp/akune_genjo/20110108/1294502466
http://d.hatena.ne.jp/akune_genjo/20110105/1294235029
http://d.hatena.ne.jp/akune_genjo/20110104/1294216880
http://d.hatena.ne.jp/akune_genjo/20110101/1294219341
http://d.hatena.ne.jp/akune_genjo/20110101/1294218289
http://d.hatena.ne.jp/akune_genjo/20110101/1294218067
http://d.hatena.ne.jp/akune_genjo/20110101/1294217519
http://d.hatena.ne.jp/akune_genjo/20110101/1294290292
http://d.hatena.ne.jp/akune_genjo/20101231/1294232600
http://d.hatena.ne.jp/akune_genjo/20101230/1294232681


これに対する反応*2を見ると、意外と竹原信一ファンって多いんだねと思った。また、アンチ竹原のコメントも「著作権」がどうたらこうたらと、詰らないものが多い。その中で、読むに値したコメントは、


nessko たぶん気持ち的には、さびれた街の雰囲気を少しでも楽しくしたいというのがあるんだろう。市長が竹原でなければ印象がちがってくるかも。全体にくそリアリズムすぎるのがあれだわな。 2011/01/06
http://b.hatena.ne.jp/nessko/20110106#bookmark-27980760

Midas 美術史家として言わせて貰うとこの壁画は皆さん大好き若冲スーパーフラットと全く同じ。「奇想」は本来こういうアウトサイダー感。ダーガー等のヘタウマ連中を持ち上げてきたツケ。自業自得。オタク文化の終着点 2011/01/06
http://b.hatena.ne.jp/Midas/20110106#bookmark-27980760
くらいか。「くそリアリズム」というよりはロー・ファイということだろう。また、これは「アウトサイダー*3というよりは児童画として論じるべきだろう。児童画といっても、幼稚園児や小学校低学年の絵ではなく、小学校高学年というところか。幼稚園児や低学年の子どもなら「くそリアリズム」ではなくて、もっと抽象的な絵を描くだろう。また、ジェンダーで言えば男の子。高学年の女の子は別様の絵を描くのでは? ここで注意しなければいけないのは、児童画というのは「アウトサイダー」どころかインサイダー中のインサイダーだということだ。制度としてのアートを底辺で支える美術(図工)教育の影響をもろに受けているが、彼らはその影響を対象化することはできない。一つの街を自らの個人美術館と化してしまった清田定男という人については、
これら壁画を制作し、竹原派から「先生」と呼ばれるのが清田定男。竹原前市長が横浜から「観光コンサルタント」として、突然連れて来たとされる。
http://d.hatena.ne.jp/akune_genjo/20110105/1294246021
という。清田について調べ物をしようとする気には今のところなれないのだが、もしかして俺と年齢が近いのではないかと思ってしまった。「壁画」が「スーパーフラット」だというのは技術的な問題だけでなく、清田が自らの記憶ストックにあったイメージを、その歴史性というウェイトを無視して、どれも等価なものとして、そのまま表出してしまっているというところにある。或いは、そもそもの意味におけるポストモダン。俺が「壁画」を見て感じたのは、俺の脳味噌をかち割ったらこれと同じようなイメージの断片が続々と発見されるかも知れないなということだ。ああ恥ずかしい!
さて、


http://blog.livedoor.jp/taitiro/archives/1366506.html


「壁画」を肯定的に取り上げる記事*4を批判する。その志は取り敢えず是としたいが、例えば、


そして最後に「アニメキャラの絵」、これは決定的です。まずこれは誰が見ても端的に著作権侵害であり、市を訴訟の危険にさらす重大な問題です。ですからこれを写さないで壁画を肯定するなんていうのはまさしく「問題から目をそらす」ことに他なりません。また、実際そのアニメキャラが効果的に描かれるなら法的にはともかく、景観的にはいいのかもしれませんが、実際はブログの記事を見れば分かるとおり、「『気持ち悪い』という言葉はこの絵を表すためにあったのか」とでも言いたくなるようなグロテスクさ。それぞれのキャラに適した画法で描かれず全てがおんなじ様なタッチなため、キャラが壁画に調和せず悪い意味で「浮き出て」しまっている。また世界観という考えもないためにただただ見る人を不安にさせる。しかも、ではその不安が何かを意図しているのかといえばそうではない。これが「芸術」だというのなら、そんな芸術は世の中から滅んでしまったほうがよっぽどマシでしょう。
というのはどうか。これは清田の絵を褒めすぎだろう。俺は別に「不安」なんて感じなかったけれど。というか、(文学を含む)アートのはたらきのひとつに、日常生活において隠蔽或いは抑圧されている意識を顕在化させるということがある。「不安」*5、特に根柢的な「不安」としての自らの死の「不安」であろう*6。そうした「不安」に直面することをオーディエンスに強制することなんて、並みのアーティストにできるわざではない。
さて、鹿児島県から米国カリフォルニア州に飛ぶ。最近ソフィア・コッポラの新作Somewhereを観た。これは彼女の作品でいうと『ロスト・イン・トランスレーション』とともに、〈中年危機〉物といえるだろう*7。お気楽なセレブ生活を送っていた俳優のJohnny Marco(Stephen Dorff)が離婚した妻との間の娘Cleo(Elle Fanning)と突然再会して、一緒に夏休みを過ごすことによって、それまで封印されていた「不安」が噴出してしまうという話。その「不安」を象徴するかのように、カリフォルニアという土地がそもそも沙漠であり、羅府とかハリウッドというのは人工的なオアシスにすぎないことが映像として強調されている。「見る人を不安にさせる」アートというのはこういうのを言うんだよ。
See also


DENNIS LIM “It’s What She Knows: The Luxe Life” http://www.nytimes.com/2010/12/12/movies/12sofia.html
A. O. SCOTT “The Pampered Life, Viewed From the Inside” http://www.nytimes.com/2010/12/22/movies/22somewhere.html
Andrew O'Hehir “"Somewhere": Sofia Coppola's smart, stylish celebrity takedown” http://www.salon.com/entertainment/movies/andrew_ohehir/2010/12/20/somewhere

ロスト・イン・トランスレーション [DVD]

ロスト・イン・トランスレーション [DVD]

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090819/1250656927 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091214/1260821177 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091222/1261450836 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100108/1262949466

*2:Eg. http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/akune_genjo/

*3:See eg. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080228/1204212786

*4:http://portal.nifty.com/2010/07/02/a/

*5:「不安」と「恐怖」の区別については、取り敢えずキェルケゴールの『不安の概念』を参照のこと。

不安の概念 (岩波文庫)

不安の概念 (岩波文庫)

*6:これについては、ハイデガーの「死に至っている存在(Sein zum Tode)」概念(『存在と時間』第62節)の再検討が必要だろうけど、今はその余裕なし。その俗流的理解の問題性については、例えば細川亮一『ハイデガー入門』第4章第3節を参照されたい。

存在と時間 下 (岩波文庫 青 651-3)

存在と時間 下 (岩波文庫 青 651-3)

ハイデガー入門 (ちくま新書)

ハイデガー入門 (ちくま新書)

*7:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090210/1234250786