レリヴァンスが蒸発したら? など

スタンリー・フィッシュ先生の“The Value of Higher Education Made Literal”*1を読みながら、「「変化」の視点が欠落している」という記事を思い出していた*2。ここでは、山口巌「子供たちに海図と羅針盤を持たそう」*3が採り上げられている。曰く、


まとめると、大学生が就職難なのは将来の「就職」を見据えたキャリア教育を中学生ごろからやってないのがいかん、将来のつく仕事に応じた進学先を教えるべきという意見のようですよ。ついでに既に様式美と化した学校の教師は社会を知らないうんぬん、だから家庭がしっかりしなければだとさ。しかも筆者は息子さんが獣医になりたいと言い出して、いろいろ調べたのがいい経験になったと自賛。

とはいえ、大学選びのときは魅力的に感じたキャリアが、いろんな状況の変化で就職活動のときにはすっかりしょぼくなってることって大いにありそう。少し前には「国際」ってつく学科がおおはやりだったし、その後は「情報」、今は「環境」が流行ってる。その昔国際何とか学科を卒業した人たちは、今でも関連した職についてるのかな?

おまけに司法試験はほとんど受からないというリアルな現実を突き付けるべきとかなんとかって、なんかえらそうに言ってるけど要するに受かる見込みのない奴はさっさとあきらめろといいたいだけなのかね。

大学に入ってからいろいろ見えてくるものもあると思うんだ。むしろ、入学後に進路変更が柔軟にできるような仕組みにした方が、勉強のやる気がでて、かえって仕事の選択肢も増えるんではないかな。最初にどこの大学の何学科に入ったかで一生を決める方が、時代遅れじゃないのかな。

最近教育の〈職業的レリヴァンス〉を云々する人は多いけれど、肝心の〈レリヴァンス〉が短期間で蒸発するということは考えられないの? とは常々思う。「大学選びのときは魅力的に感じたキャリアが、いろんな状況の変化で就職活動のときにはすっかりしょぼくなってる」というのはそういうことなのだろうと思う。また、「入学後に進路変更が柔軟にできるような仕組みに」するというのは、例えば大学教育を米国式にシフトするということでいいのだろうか。以前言及した*4佐和隆光氏の「大学院重点化がもたらした四つの矛盾」(『経』108)から引用すると、

ここで強調しておきたいのは、[米国の]大学には学部が存在しないという点である。大学に入学すると、主専攻(major)と副専攻(minor)を自由に選択できる。数学が得意だと思って、数学をmajorにしたものの、授業の内容が高度化するに伴い、自らの数学的能力の限界を思い知らされれば、majorを生物学や経済学に変更することができる。(p.45)
但し、佐和氏は「アメリカでは、最低限、大学院の修士課程を卒業していない限り、専門的知識は無きに等しい」とも述べてはいるが(ibid.)。1990年代以降の日本の大学教育の改革は〈米国化〉どころか寧ろ一面では〈脱米国化〉といえるのではないか。上のエントリーにある「国際」とか「情報」という名がつく学部・学科の乱立というのは、実は〈教養部〉解体ということに関係がある。それまで一般教養を担当していた先生をどうするのかということで、例えば語学や文学の先生は「国際」なんちゃらという新学部・学科に、(文系の大学で)自然科学を担当していた先生は「環境」なんちゃらという新学部・学科に行ってもらうということは1990年代以降多くの大学で行われていた筈である。さて、山口氏のエントリーなんだけれど、これって要するに、自分の、また息子が相続するだろう〈文化資本〉をさり気なく自慢しているということでしょ。まあそれは別に悪いことではないけれど。ただ、親や親戚などの近しい大人から自分の将来のアカデミックなキャリアについて助言を貰うことができる子とそうしたことができない子の格差というのは深刻である筈だということは言わなければならない。
ところで、橘玲「「教育格差」を憂えるひとたちの奇妙な論理」*5。「行動遺伝学」を持ち出して、教育への公的資金の投入を批判する。自称リバタリアンの想像する社会というのは何とも不自由だぜ。