「先祖代々」薄れる?

『読売』の記事;


「先祖代々の墓に」意識薄れる…読売調査
散骨など新たな葬送、「あってもよい」63%


 読売新聞社の地域社会や家族に関する全国世論調査(面接方式)で、誰と一緒に墓に入りたいかを複数回答で聞いたところ、「配偶者」67%が最も多く、「先祖」27%、「実の親」26%、「子供・孫」22%などとなった。

 1994年の同様の調査でも、「配偶者」64%に「先祖」33%が続いたが、その差は広がり、「先祖代々の墓に入る」という意識は薄れつつあるようだ。

 遺骨を灰にしてまく散骨など新たな葬送方法については、「あってもよい」63%、「そうは思わない」14%、「形式や場合による」21%だった。自分の葬式に関しては、「身内と親しい人だけでしてほしい」39%、「世間並みにしてほしい」31%、「家族だけでしてほしい」21%などの順に多かった。

 自分の墓の世話や供養をしてくれる人がいなくなるという不安を「感じていない」は61%だったが、「感じている」も37%あった。

 住んでいる都道府県や周辺地域に、葬式や法事を頼める決まった寺などが「ある」という人は66%だった。

 葬式などについて問題だと思うこと(複数回答)では、「葬儀費用が高い」61%が際立って多かった。

 調査は7月17〜18日、全国有権者3000人を対象に実施し、1792人から回答を得た(回収率60%)。
(2010年8月9日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/homeguide/news/20100809-OYT8T00163.htm

まあ「先祖代々の墓」自体が一種の〈伝統の発明〉というか、「近現代」に特有の現象であるわけだが(Cf. 岩田重則『「お墓」の誕生』、p.139ff.)*1。「先祖代々」が薄れる一方で、墓を巡る近代家族意識は維持されているようだ。記事の本文ではオミットされているが、「気の合う友人」と「一緒に墓に入りたい」という人は1%しかいない。以前「「もやいの会」*2のように「死後の住みかを共にする仲間」を作ろうとする人々も少なからずいる」と書いたのだが*3、そういう人は統計的に見れば圧倒的にマイノリティである。寧ろ家族がいなければ死後淋しいという意識は強まっているのか(どうする、非モテ君?)。
「お墓」の誕生―死者祭祀の民俗誌 (岩波新書)

「お墓」の誕生―死者祭祀の民俗誌 (岩波新書)

葬制に関しては、日本人は既に火葬民族であり、土葬か火葬かというのはアンケートの質問にもならないのだな。それから、死に場所の近くに葬るか家の近くに葬るかという問題。欧米人は死に場所の近くに葬られることを希望する傾向が強く、日本人は(いまだに戦死者の遺骨収集が問題となっているように)死に場所ではなく家の近くに葬られることを希望する傾向が強いとされていたが、実際のところどうなっているのだろうか。それとも、「先祖」問題にも関係して、またとりわけ「墓」の問題に限らないのだが、日本人(特に大都市及び郊外居住者)のアイデンティティの軸足がイナカにあるのか、それとも現に住んでいる都市にあるのかということも気になる。前者と後者とでは、当然「先祖」との関係も変わってこよう。また、大都市及び郊外居住者の場合、既に(例えば)〈在東京一世〉の時代から〈在東京二世〉(或いは三世)の時代へと世代的にも移行している。〈在東京三世〉にとってイナカとは何処なのか。
「住んでいる都道府県や周辺地域に、葬式や法事を頼める決まった寺などが「ある」という人は66%だった」。現代日本菩提寺問題に関しては、取り敢えず


NORIMITSU ONISHI “In Japan, Buddhism May Be Dying Out” http://www.nytimes.com/2008/07/14/world/asia/14japan.html *4


を参照されたい。
さて、東京足立区の1978年に「即身成仏」していたらしい爺さん*5。日本において支配的な筈の霊魂観では、30回忌を過ぎればもう霊としての個性が蒸発して、〈先祖(祖霊)〉に同化してしまうんだよな。