http://www.su-gomori.com/2010/05/post-492.html
昨年発表された坂本龍一へのインタヴュー*1が今になって取り上げられている。そして、この記事へのブックマークの数は既に400を超えている!*2 この記事は坂本龍一インタヴューの要約としてはまあ適切なのだろうけど、レスポンスとしてはちょっとピントがぼけているように思える;
ライヴへの回帰ということは音楽の享受(消費)がモノの享受(消費)から時間或いは空間の享受(消費)に近づくということだ。勿論、空虚な時間・空間ではなくて音楽で充たされた時間・空間ということだろうけど。こうしたモノから時間(空間)へという方向性は既に「消費社会」一般の変容の方向性として山崎正和氏(『柔らかい個人主義の誕生』、『社交する人間』など)によって指摘されていたことではある。
「音楽はどんどんタダ化が進んで、プライスがゼロに近づく」と語る坂本さんが示す音楽の次なるかたちは「ライブ」。現在の音楽ビジネスが誕生する以前は、音楽は目に見えないものだった。「音楽が目に見えない、触れられないデータ化されたものになっている今、もう一度音楽のおおもとのかたち − ライブへの欲求が強くなっている」。この傾向は非常に面白い変化だと、坂本さんは語っている。ミュージシャンとリスナーを分断していた音楽業界そのものがなくなるということはあり得ないが、音楽パッケージビジネスが縮小していくことは間違いない。その代わりに、アーティストとリスナーをつなぐ場所としてインターネットの役割が重要性を増していくだろう。アーティストとリスナーが一体となって作り上げるライブイベントや128bpsなどの低音質の音源の無料配信、関連グッズのWeb販売など、やるべきことはまだまだたくさんある。
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さて、ここで音楽のトポスとしての大都市がクローズ・アップされることになる。小ぶりのスペースが多くあり、ライヴの音楽が恒常的に行われている場所は何よりも大都市だからだ。ライヴへの回帰、それは大都市への回帰を意味するのかも知れない*6。
sekirei-9 著作権, 音楽, ビジネス, 産業 ライブ救世主論。でもはてブコメントにあるように、売れっ子以外の音楽家にとっては険しすぎる道。音楽市場の拡大を牽引した録音音楽がタダになるなら、いくらライブで頑張っても市場が元のサイズに戻るのは難しそう 2010/05/10
http://b.hatena.ne.jp/sekirei-9/20100510#bookmark-21383480
一方では、野球場とかサッカー場とか、常に万単位の動員がグローバルな範囲で可能なスーパー・メジャーな人たちがいる。他方、マイナーなレヴェルでは、世界中の大都市に散在するライヴハウスやクラブのような小さな場所を渡り歩くミュージシャンやDJがいる。多分いちばん割を食うのはその中間の(普通の意味で)メジャーな人たちなのだろう。そういえば、昔矢野顕子が幼稚園でも老人ホームでも公民館でも、ピアノがある場所なら日本全国どこへでも行きますというライヴの出前をやっていた。それをやればいい。グローバルな範囲で。
dodorugefu 音楽, ビジネス ライブで食っていけるのは超大物かアイドルくらいじゃない?/ここ1〜2年でハコの規模とかが明らかに縮小傾向の人達も増えてる。 2010/05/10
http://b.hatena.ne.jp/dodorugefu/20100510#bookmark-21383480
*1:http://www.phileweb.com/interview/article/200908/31/25.html Cited in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091222/1261497776
*2:http://b.hatena.ne.jp/entry/www.su-gomori.com/2010/05/post-492.html
*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050820
*4:さらに、オーディエンス同士の相互作用を考慮しなければならないだろう。
*5:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100302/1267505317
*6:勿論、野外フェスティヴァルには別の魅力があるといえるのだが、それはともかく、フェスティヴァルという名前が示すように、1年に1回というような限定性があるのであって、年がら年中やっていてはフェスティヴァルではなくなってしまうだろう。