「言霊」ふたたび

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100223/1266896359へのコメント;


norton3rd *ネタ 『江戸時代、柿本人麿は火事除けの神様として信仰されていた。』ウチの台所に貼ってある秋葉さんの御札には人麻呂の絵とご紹介の地口「火気の元火止まる」が書いてある。俺んちは江戸時代だったのか 2010/02/24
http://b.hatena.ne.jp/norton3rd/20100224#bookmark-19534283
これは言霊さきはふ世界ということなり。
さて、城内実「國語と外国語(写真付)」*1。曰く、

 最近になって日本語は本当に奥が深いなとしみじみと感じるようになった。初等教育を西ドイツで受けた私がいうのもなんであるが、日本語は他の言語と比べて言霊(ことだま)とか文字霊(もじたま)というものが突出しているような気がしてならない。こんなことをいっても唯物論者には何のことか分からないだろう。しかし、たとえ非科学的といわれようともそのようなものが存在し、日本語にその特徴があらわれているとしか思えないのである。ここではこれ以上詳しいことは述べない。
この記事の日付は2月24日。もしや、城内氏我が記事を読みしか。はたまた偶然か。いや、言霊の力、げに恐るべし。さて、氏、「こんなことをいっても唯物論者には何のことか分からないだろう」といへり。嗤ふべき無知なり。言霊のはたらきたるパフォーマティヴな効果とは、言語の観念論的側面たるコンスタティヴな機能、観念の表象のそのさき、裂け目に現はるものにあらざるや。これ、言語の「唯物論」的側面にほかならず。先生、ポール・ドゥ・マンなる白耳義生まれの米国人学者を知らざりしか。先ずはドゥ・マンを論じしJ. Hillis Miller “Paul de Man as Allergen”(Chapter 10 of Others)を読まれよ。さらには、仏国のジュリア・クリステヴァ女士の著作をも。
Others

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以上、ネタ元の筆者に敬意を示して、「文語文」を綴ってみた。リンクされている「文語の苑」*2は、辻井喬堤清二)、山崎正和、石川忠久といったまっとうな碩学方とアレというかアレすぎる人たちが入り雑じっていて、そこが面白い。
さて、「初等教育を西ドイツで受けた」方なら既にご存知ではあろうが、近代独逸哲学最大の〈言霊主義者〉はフィヒテだろうか。『独逸国民に告ぐ』に曰く、「ドイツ人は最後まで自然力より流れ出づる活々とした国語を話し、他のゲルマン民族は表面のみが運動を示しその根柢に於いては死んでしまつた言語を話す」(p.95)。
ドイツ国民に告ぐ (岩波文庫)

ドイツ国民に告ぐ (岩波文庫)

例えば私が詩的言語を巡ってつらつらと述べていることは*3(肩肘張った言い回しで言えば)言霊の唯物論的肯定*4である。