過去と現在など(『フェリーニのローマ』メモ)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100215/1266172377で伊太利に言及したからというわけではないが、最近『フェリーニのローマ』を観た。
この映画の有名なナレーションには、〈ローマとは貴族であり、売春婦であり、道化である〉というのがある。名言ではあるが、そもそも都市というのは、都市を田舎から区別するのはそれなのであろう。
この映画では大雑把に言って、3つの「ローマ」が描かれているといえるだろう。先ず(フェリーニ自身にも重ねられる)語り手によって回想される1930年代から戦時中にかけての羅馬。また、現在(1972年)に語り手によって撮影される羅馬の風景や風俗(現在としての羅馬)。それから、古びた貴族の屋敷で開催される聖職者のファッション・ショーのシーンのような、幻想としての、つまり無時間的な羅馬。これらが重なり合うのは、最後の、羅馬の街に暴走族(?)*1が現れて、バイクのライトによって古代遺跡が照らし出され、やがて暴走族は暗闇の中にフェイド・アウトしていって、そのまま映画が終わってしまうというシーンということになるか。過去の羅馬はあくまでも語り手によって回想された極私的なものであるのに対して、現在の羅馬を眺め・撮影する語り手は対象から距離を取っており、その結果、映像はニュース映像のように〈客観的〉なものとなっている。ここで、


過去:私的、主観的
現在:公的、客観的


という対立が成立するとも言える。
それとも関連するが、過去ということで興味深かったのは、羅馬の地下鉄工事を撮影するシーン。トンネルを掘り進めてゆくと、大きな空洞があり、古代羅馬の屋敷跡が見つかる。壁には鮮やかなフレスコ画が描かれている。しかし、フレスコ画は外気に触れたことによって瞬時に消失していくのだ。過去の発見(想起)は同時に過去の消失であるというパラドクス。
さて、フェリーニが観光の対象ともなる羅馬の中心部だけではなく、荒涼とした〈国道16号線〉的*2な羅馬に対する関心を抱いていたということがわかる。例えば、水浸しの高速道路のシーン。これは一貫していたともいえ、『ローマ』以前の『甘い生活』でも、晩年期の作品に属す『ジンジャーとフレッド』でも看て取ることができる。

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