2番目の女性映画監督でもある

『スポーツ報知』の記事;


下関から映画文化発信!田中絹代ぶんか館オープン


 日本を代表する名女優、田中絹代さん(1977年死去、享年67歳)の功績をたたえる「田中絹代ぶんか館」が13日、出身地の山口・下関にオープン、俳優の奥田瑛二(59)、女優の松坂慶子(57)、安倍晋三元首相(55)らがセレモニーに出席した。同館は1924年に竣工(しゅんこう)した旧逓信省下関電信局電話課庁舎を改装したもの。下関に映画館を持つ奥田は「文化交流の起点となってほしい」と期待を込めた。

 大正末期に下関市民の声を伝えた電話局が、映画文化の発信拠点に生まれ変わった。築86年の大正期のモダニズム建築をリニューアルした「田中絹代ぶんか館」の誕生を祝い、この日、下関や映画ゆかりの各界著名人が集まった。

 田中さんはサイレント映画時代から活躍した大スター。溝口健二市川崑熊井啓監督ら巨匠とコンビを組み、生涯で約250本の映画に出演した。出演作は世界3大映画祭(ベルリン、カンヌ、ベネチア)のすべてで受賞。日本で2人目の女性映画監督でもあった。同館では台本、衣装など遺品約100点を展示。ミニ上映施設も備えている。

 セレモニーには下関に縁がある奥田、エッセイストの安藤和津さん(61)が夫妻で出席。下関駅前に映画館「シアターゼロ」を持つ奥田は「出演作250本。すごい。下関は木暮実千代松田優作も輩出してきた。ぶんか館はそういうプライドを持てる場所。文化交流の起点になってほしい」。下関市文化振興財団理事長の安藤も「田中さんをきっかけに、映画にかかわってくれれば。大きい女優が日本で育ってほしい」と期待を込めた。

 96年に毎日映画コンクールで「田中絹代賞」を受賞した松坂も「ワクワクする。展示物を見て、映画人でよかったと思った。若い女優さんにも来て、刺激をいただきたい」と興奮気味。映画館支配人の奥田には「私を“副副支配人”にしていただきたい」とオファーし、映画振興の助太刀に名乗りを上げた。

 同館は1924年、旧逓信省下関電信局電話課庁舎として竣工。ヨーロッパの新建築運動の影響を受けた唯一、現存する電話局だ。その後、下関市役所第1別館として親しまれていたが、91年に老朽化を理由に空き家となり、93年には解体方針が決まった。しかし、市民から保存、利活用を望む声を受け、99年に方針を転換。2002年には廃屋から一転、市の有形文化財に指定され、以後、利活用の道を探っていた。ぶんか館の誕生は解体が進む近代建築のあり方の再検証にも一石投じることになりそうだ。

 ◆田中 絹代(たなか・きぬよ)1909年11月29日、山口県下関市生まれ。24年に松竹下加茂撮影所に入所し、映画「元禄女」でデビュー。上原謙さんと共演した「愛染かつら」(38年)で人気女優の座を不動に。ほかに「西鶴一代女」「楢山節考」「おとうと」など。74年の「サンダカン八番娼館 望郷」ではベルリン国際映画祭で女優賞を受賞。77年3月21日、脳腫瘍(しゅよう)のため67歳で死去。命日は「花嵐忌(からんき)」と名付けられている。

 ◆開館時間 午前9時半から午後5時まで。原則、月曜と年末年始が休館。「―ぶんか館」2階の「田中絹代記念館」だけ有料で高校生以上200円、小中学生100円。
http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20100214-OHT1T00051.htm

田中絹代が亡くなったとき67歳だったのいうのはちょっと若いなという感じがする。尤も、亡くなる前年まで、元気に役者として仕事をしていたわけだが。
ところで、上の記事では言及されていないが田中絹代は日本で2人目の女性映画監督だった*1。ということで、(彼女とは直接関係ないが)


Kira Cochrane “Why are there so few female film-makers?” http://www.guardian.co.uk/film/2010/jan/31/female-film-makers


をマークしておく。それが引くMartha Lauzenの研究によれば、2008年の時点でハリウッドにおける女性監督の比率は9%であり、この比率は1998年から変わっていない。また、これまでにオスカー(監督賞)にノミネートされた女性は3名のみ。

序でに、田中絹代に関しては、みのもんたが野蛮なことをやったようだ *2みのもんたの番組では上のニュースは採り上げられたのか。採り上げられたとしたら、どんな顔をして?