京都など

承前*1


Osaan*2 2010/01/10 15:30
京都の人に言わせると、天皇は東京に「行幸」したままになってるだけだそうですね。
だから京に「還幸」するのが本来のあり方になるんだ、と。
明治初期の文書でもそうなっていて、その後はうやむやのまま現在にいたるとか。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100110/1263064196#c1263105001
たしかに、東京への遷都令のようなものは出ていないようですね。さて、このことと関係があるのか、〈首都東京〉が既成事実化した頃になっても、京都を首都に準ずる都市として遇せよという運動はあったようです。そこでモデルとして提示されたのは、モスクワ/ペテルブルクの二重首都体制を採っていた露西亜。また、大正と昭和の大嘗祭が京都で行われたことは多分これと関係があるのでしょう。さらに、京都という地名ならざる地名が残ったこともこれと関係があるのではないかと勝手に思っています。京都というのは固有名詞ではなく、首都を表す普通名詞にすぎません。現代中国語で京都といえば、第一義的に北京を指します。因みに、日本の京都(平安京)を北京と書くことがありますが、その場合ホッキョウと読むこと(会津八一『自註鹿鳴集』*3、p.15)。
自註鹿鳴集 (新潮文庫)

自註鹿鳴集 (新潮文庫)

また、

zu2 洞村の人々は神武天皇墓所を守る人々の末裔であるって説を読んだ記憶がある。浅はかな明治政府が何を失わせたか。 / http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku225.htm 2010/01/11
http://b.hatena.ne.jp/zu2/20100111#bookmark-18457701
強制移転は大正時代だったというのはさて措き、中国河北省の大運河沿いにフィリピン系の人々が住む村があるということを思い出す。明代にフィリピンの某王が朝貢のため北京に上り、フィリピンへ帰る途中にその地で病没し、葬られた。おつきの家来たちは王の墓を守るために、その地に住みついたと。