アレントと「暴力」(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091026/1256574276に関連して。

石田雅樹「「暴力」とは何か?――アーレントと『共和国の危機』」http://thought.air-nifty.com/thought/2008/11/post-ea6c.html


アレントの”On Violence”*1、特にその第2節の論点の要約。それに続けて、石田氏のコメント;


アーレントは「権力」、「暴力」、「力」、「権威」authority、「強制力」force といった用語が政治学では混乱しているとし、これらを精緻に定義しようと試みた。「権力」と「暴力」とを区分した上でその関係性(そして相反性)を明確にしようとしたのはその端的な事例である。しかしながらそれは、彼女自身が「非暴力主義」という政治的主張を持っていたことと同義ではない。アメリカ亡命直後のアーレントユダヤ系論壇で注目されたのは、ナチス・ドイツとの「話し合いによる解決」の欺瞞を告発し、ユダヤ人軍隊の創設の必要性を訴えたからであった。

この「暴力について」では、黒人や学生の暴動が事例として取り上げられているが、これらの運動に対してアーレントの態度は微妙である。一方では、官僚化が進み、有効な政治的異議申立が困難となる中で、社会変革に対する貢献を行うものとして一定の評価が与えられている。しかしながらその他方、黒人や学生の無謀な要求が突きつけられることで、それに対する白人・警察の「暴力」的な巻き返しが行われうるという事態も危惧していた。ここでの問題は「暴力か非暴力か」という境界ではなく、「暴力」が「正当化」を確保できるかどうか、予測しうる短期的な目標を実現する手段として適正かどうかという点にある。こうした「暴力」へのスタンスはアーレントの議論全般に見受けられる、と私は考えている。

アレントが「ユダヤ人軍隊の創設の必要性を訴えた」云々については、エリザベス・ヤング=ブルーエル『ハンナ・アーレント伝』第5章「ニューヨーク――誠実は真理の徴 1941-1948」「ユダヤ人軍団のために」(pp.247-257)に記載あり。
Crises of the Republic: Lying in Politics; Civil Disobedience; On Violence; Thoughts on Politics and Revolution

Crises of the Republic: Lying in Politics; Civil Disobedience; On Violence; Thoughts on Politics and Revolution

暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)

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ハンナ・アーレント伝

ハンナ・アーレント伝

また、「暴力」が「予測しうる短期的な目標を実現する手段として適正かどうかという点」ということに関して、アレントの文章を引用すると、

Violence, being instrumental by nature, is rational to the extent that it is effective in reaching the end that must justify it. And since when we act And since when we act we never know with any certainty the eventual consequences of what we are doing, violence can remain rational only if it pursues short-term goals. Violence does not promote causes, neither history nor revolution, neither progress nor reaction; but it can serve to dramatize grievances and bring them to public attention. As Coner Cruise O’Brien ( in a debate on the legitimacy of violence in the Theatre of Ideas) once remarked, quoting William O’Brien, the nineteenth-century Irish agrarian and nationalist agitator: Sometimes violence is the only way of ensuring a hearing for moderation.” To ask the impossible in order to obtain the possible is not always counterproductive. And indeed, violence, contrary to what its prophets try to tell us, is more the weapon of reform than of revolution. (p.176)
最後の「暴力は革命の武器というよりは改革の武器である」に関連して;

(…) In a contest of violence against violence the superiority of the government has always been absolute; but this superiority lasts only as long as the power structure of the government is intact—that is, as long as commands are obeyed and the army or police forces are prepared to use their weapons. When this is no longer the case, the situation changes abruptly. Not only is the rebellion not put down, but the arms themselves change hands—sometimes, as in the Hungarian revolution, within a few hours. (…) Only after this has happened, when the disintegration of the government in power has permitted the rebels to arm themselves, can one speak of an “armed uprising,” which often does not take place at all or occurs when it is no longer necessary. Where commands are no longer obeyed, the means of violence are of no use; and the question of this obedience is not decided by the command-obedience relation but by opinion, and of course, by the number of those who share it. (…) (pp.147-148)
ところで、昨日言及した竹田茂夫『ゲーム理論を読みとく』で、ハンス・モーゲンソーの「パワー・ポリティクス」論について言及されている。「モーゲンソーは国際政治を道徳や法律に還元できない独自の法則をもった領域と考える」が、

モーゲンソーの政治的リアリズムの中心概念は国益とパワー(勢力)である。国益とはたんなる物質的利益ではなく、プレスティージ(威信)も含む。また、パワーはフォース(物理的暴力の行使)、つまり軍事力と区別すべきであるという。パワーには軍事力による脅しで相手を従わせることも含まれるが、道徳や慣習や国際法も、国際世論などを通じて人々の心を左右する限りでパワーを構成する。モーゲンソーは、国際政治は力の論理だけから構成されるという考え方をマキャベリアン・ユートピアと呼んで、非現実的な考え方だと批判する。パワーの行使にもおのずから道徳によって限界が決められるのだという。(pp.248-249)
 
ゲーム理論を読みとく (ちくま新書)

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モーゲンソーはアレントの”On Violence”に対して好意的な感想を持っていた*2。また、本間長世氏(『ユダヤアメリカ人』)によると、モーゲンソーはアレントの夫の死後にアレントに求婚したが、アレントはそれを受け流して、お友だちのままでいることを選んだという。
ユダヤ系アメリカ人―偉大な成功物語のジレンマ (PHP新書)

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ヤング=ブルーエルのWhy Arendt Matters*3、日本語訳も出ているの?