「お手本」なき「近代化」(長谷川宏)

新しいヘーゲル (講談社現代新書)

新しいヘーゲル (講談社現代新書)

日本にいる間に、長谷川宏*1『新しいヘーゲル』からちょっとメモをしておく。
「西洋の近代化はお手本をもたない近代化」、また「世界史の先頭を切って荒野に道を切りひらいていくような近代化」だったという(p.146)。


いまかりに文明を三つの側面に――物質面・制度面・精神面の三つの側面に――わけて考えるものとする。そのとき、物質面と制度面については、お手本を拝受するという姿勢で西洋文明を消化・吸収できる可能性が小さくはない。たとえば、物の形をとる洋服や西洋料理や洋風建築や電話、汽車、ガス灯などは、輸入してもよし、国内生産してもよし、しかるべくしつらえて多くの人が利用すれば、それなりに消化・吸収できたと見なすことができるし、税制や通貨制度や内閣制度や議会制度についても、見よう見まねで形をととのえ、試行錯誤を重ねつつ運用していくうちに制度としてしだいに定着してくる。実際、そういうようにして、日本の近代化は物質面と制度面においては時とともに長足の進歩を遂げてきた。いや、日本だけではない。日本のあとを追うようにして、アジアや南アメリカやアフリカの諸国がそうした近代化の道をあゆむすがたを、わたしたちはいまなおあちこちに見ることができる。
が、精神面の近代化にかんしては事情が少し異なってくる。西洋の近代精神をお手本としてこれを消化・吸収しようとするその姿勢そのものが、西洋近代精神に反することだからだ。いいかえれば、西洋の近代精神は、お手本としてこれを消化・吸収しようとする接近のしかたをきびしくしりぞけるような、そういう精神なのだ。お手本をもたないで生きていく、というのが、すなわち精神における近代化ということなのだ。逆にいえば、西洋精神がお手本として拝受されているかぎり、精神の近代化はいまだ果たされていないということだ。幕末の開国後、西洋文明の威力と魅力に圧倒され、必死の思いでそれを追いかけようとしていた日本の知識人にとっても庶民にとっても、そうした精神の機微に思いをとどかせることはむずかしかった。とりあえず、お手本を誠実に学んでいれば精神面の近代化も進展していくと考えるか、精神面には蓋をして、お手本学びで着々と効果のあがる物質面、制度面での近代化を推し進めるしか、かれらにはなかった。お手本のある近代化の、いうならば及び腰のそうした姿勢が、西洋の近代精神とそぐわない側面をもつことは、うすうす感じとられてはいたので、だからこそ、開きなおってその姿勢をよしとする「和魂洋才」といった熟語がうまれたりもしたのだが、開きなおろうがなるまいが、「洋魂」の理解の困難さはいささかも軽減されることはなかった。(pp.145-146)