「かっこいい」

http://d.hatena.ne.jp/solar/20090701#p1


「「かっこよさ」の復権を期待する」仲俣暁生氏。
「かっこいい」というのも多義的な語で、何が「かっこいい」のかというのはなかなか掴めない。仲俣氏は日本的な状況についてのみ言及しているが、1960年代から70年代にかけて、「かっこいい」に疑問符が付されたというのは、(先進資本主義社会に限った話かも知れないが)グローバルな現象であったとはいえるのではないか。それがなければ、ウディ・アレンダスティン・ホフマンエリオット・グールドジャック・ニコルソンもスターとしてブレイクすることはなかったのではないか。日本においても、阿久悠沢田研二に「ボギー、ボギー/あんたの時代はよかった」(「カサブランカ・ダンディ」)と歌わせたときに気づかれていた筈。

さて、


ヒロイズムはもはや「中二病」でしかなく、アイロニーシニシズムに覆われた自意識が「かっこよさ」への希求を抑圧する。笠井潔が「例外社会」の象徴としてあげる秋葉原での事件については、私はあまり言いたいことはないのだが、加藤青年*1のなかには、女の子に「モテたい」という気持ちと同じぐらい、あるいはそれ以上に、「かっこよくありたい」という思いだってあったのではないだろうか。

だとしたら、「モテ(=他人からの承認)」なんか気にせず、彼が自分で自分自身を承認できるような「かっこよさ」の基準を打ち立てることに成功していたら、もうちょっと話は違っていたんじゃないかと思う。彼に必要だったのは、ガールフレンドじゃなくて、「お前、かっこいいよ」と言ってくれる男友だちだったんじゃないだろうか。「お前、かっこいいよ」も承認の一形態かもしれないけど、まるごと自分という存在を受け入れてくれる、というような意味ではない。「かっこいい」は存在に対してじゃなくて、アクションに対する評価なのだから。

女の人が女友だちをみつけるのも大変なようだけど、大人になってつくづく思うのは、男にとっても「男友だち」をみつけるのは大変だ、ということだ。ホモソーシャルな状況はすぐに生まれるが、そこには友情は存在しない。日本はいまも相変わらず男社会だけど、ホモソーシャルな社会は女たちだけでなく、男のなかにある「かっこよさ」への志向性、つまり少年性も排除する。「かわいい」という感性は、消費社会とホモソーシャル社会を等号でつなぐのにきわめて便利なもので、オタクというのは、ようするにそういう感性を内面化した男たちのことなのだと思う。

「かっこいい」を「ヒロイズム」にそのまま結びつけるのはどうかと思う。「「かっこいい」は存在に対してじゃなくて、アクションに対する評価なのだ」というが、「かっこいい」はその語源からして、本質よりも現れに、内容よりも形式(スタイル)に関わる事柄なのでは? また、「ヒロイズム」が〈物語〉に従属し、あくまでもその枠内で存立するのに対して、「かっこいい」は〈物語〉にはまだ回収されない、或いは〈物語〉を逸脱するような〈瞬間〉において生起する出来事であろう。