死後の生(メモ)

草の花 (新潮文庫)

草の花 (新潮文庫)

福永武彦『草の花』を読み始めている。
そこから少し抜き書き。「汐見茂思」が「私」に託した手記から。文中の「僕」は「汐見」を指す。


僕が藤木を識っていたのは僅か三年に充たず、しかも親しく交ったのは最初の一年にすぎない。彼が死んでから既に十年以上の歳月が過ぎ去ってしまった。しかし僕等が、存在することによって他者に働きかけるように、既に存在した者も、依然として生者に働きかけるのだ。一人の人間は、彼が灰となり塵に帰ってしまった後に於ても、誰かが彼の動作、彼の話しぶり、彼の癖、彼の感じかた、彼の考え、そのようなものを明かに覚えている限り、なお生きている。そして彼を識る人々が一人ずつ死んで行くにつれて、彼の生きる幽明界は次第に狭くなり、最後の一人が死ぬと共に、彼は二度目の、決定的な死を死ぬ。この死と共に、彼はもはや生者の間に甦ることはない。
しかしこのような死者の生命は、それが生者の記憶に属しているだけに、いつでも微弱で心許ないのだ。従って生者は、必ずや死者の記憶を常に新たにし、死者と共に生きなければならない。死者を嘆き悲しむだけでなく、泯び去った生命を呼び戻そうとすることは、生者の当然の義務でなければならない。蛇に噛まれて死んだ妻Eurydikeを追って、黄泉の国にくだった楽人Orpheusのように。(p.125)
少し先の語り;

死者は遂に戻らない。そして僕もまた遠からず死ぬだろう。僕は死後に生命があることも信じないし、死後に藤木の霊魂と再会するとも思わない。僕の死は、僕にとって世界の終わりであると共に、僕の裡なる記憶と共に藤木をもまた殺すだろう。僕の死と共に藤木をもまた殺すだろう。(後略)(p.126)
こちらの方の語りで、「僕」は「藤木」の記憶をいつの間にか独占してしまっている。「僕」以外にも「藤木」を知るものは少なからずいる筈だし、実際「藤木」の妹である「千枝子」は「藤木」の死後どころか「僕」の死後も生きる。「僕」はそのような他者の存在を抹消してしまっているわけだ。また、「藤木をもまた殺すだろう」と強い表現が用いられている。「僕」(「汐見茂思」)の死は自殺性が高いことが小説の中で仄めかされているが、これは「僕」が「藤木」を自身と同時に「殺す」意志を持っていたということを意味する。その一方で、「僕」は「藤木」との関わりに関する手記を綴り、「私」に託す。そのことによって、「藤木」は「二度目の、決定的な死」も超えて、数十年後に小説を読んだ私の脳内に蘇生し、さらにその一部を引用したこのエントリーを読む人の脳内にも蘇生することになる。「僕」の強い独我論が「僕」の生/性を不毛なものにしたもののひとつであることは間違いないのだが、エクリチュールは(「僕」の独我論を裏切って)「僕」の死によってもたらされる他者や世界の虐殺を取り敢えず先送りする。それはエクリチュールによる救済ということもできるのだろうけど、「僕」はそのことを自覚していたかどうか。
ところで、「僕」の死の少し前に、「僕」が「私」に自らの死生観を時間論的に語っている台詞があるので、そこも抜き書きしておこう;

「芸術家の生涯は未来に於て完結するのだね。いつか書く作品、いつか書くべき作品。そこに彼の生命が懸っている。書き終わった作品にはもう何の価値もない、彼はいつも未来を見て生きている。その未来が、彼の死後に懸ることもある。その場合、彼の仕事は時間の外に於て営まれているわけだ。」そこで彼は、思い出したように煙草を喫んだ。喫み終ると、灰皿の代用品である歯磨粉の空缶の中に、それを捨てた。「ところが、」と話し続けた。「僕等のように芸術家ではない人間にとって、人生は彼が生きたその一日一日と共に終って行くのだ。未来というものはない、死があるばかりだ、死は一切の終りだ。現在というものはない……そう、多くの場合に現在さえもないのだ。そこには過去があるばかりだ。それは勿論本当の生きかたじゃあるまい、今日の日を生きなくて何を生きると言うのだ。しかし、人間は多く、過去によって生きている。過去が、その人間を決定してしまっているのだ。生きるのではなく、生きたのだ、死は単なるしるしにすぎないよ。」(p.36)