『おくりびと』を観る

おくりびと [DVD]

おくりびと [DVD]

数日前に滝田洋二郎おくりびと*1を観た。きわめて充実した映画、濃厚でありながらタイトで繊細な映画だと思った。山形県庄内地方の風景が美しい*2。また、山崎努本木雅弘が遂行する死者を湯灌し、死化粧を施し、死装束を着せる納棺師の所作はまるで茶道のお手前のように様式化されていて美しい。これはその所作が恣意的なものではないことを意味している*3
さて、『おくりびと』は秋から冬を経て、春に至る物語。この季節的な流れが重要な意味を持っているように思われた。春は何を意味するのか。ここでは、先ず差別からの解放であり、夫婦間の和解であり、父と子の和解である。
死を巡る事柄は日常的に忌避されており*4、それと関連して、死に関与する人々は差別の対象ともなる。だから、小林大悟本木雅弘)は妻(広末涼子)に自らが就いた職業を打ち明けることができない。夫が自分に黙って死を巡る仕事に就いたことを知った美香は怒って実家に帰ってしまう。春になって、美香は帰ってくる。彼女が問題にしていたことは実は、夫が自分の職業を自分の子どもに堂々と言えるかどうかということだった。また、彼女が納棺師という仕事を見直すきっかけとなったのは、親しくしていた老女(吉行和子)に対する夫の仕事を直接見たことでもある。最後には子どもの頃に自分を捨てて家を出ていった父親との和解。この和解も彼の納棺師としての技術という媒介なくして可能だったかどうか。この和解に関しては、「NKエージェント」で事務をしている上村百合子(余貴美子)が父親と大悟を繋ぐ重要な媒介項となる。この2人の構造論的な関係は、


男/女
東京から山形県に戻ってきた/帯広から山形県にやってきた
父親に捨てられたことがある/帯広で息子を捨てたことがある


ということになる。また、大悟はチェリストであり、山形に帰って来てからも、チェロ(それも父親が買った子ども用のチェロ)を弾き続け、チェロを弾くことは彼の人格の中心に染み込んでいるといえるのだが、チェロを弾くこと自体、(全く肯定的な感情を抱くことのできない)父親に植え付けられたものだった。
なお、大悟と父親、大悟と美香のコミュニケーションにおいて、「石文」というメディアが出てくる*5

*1:http://www.okuribito.jp/

*2:あの白鳥が越冬している場所は何処なんだ?

*3:死を巡る事柄の様式姓(儀礼性)が個人を情動的なショックから防衛することについては、福田恆存『人間この劇的なるもの』に言及があったか。

人間・この劇的なるもの (中公文庫)

人間・この劇的なるもの (中公文庫)

*4:See eg. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080918/1221681806

*5:おくりびと』における「石文」に言及しているものを検索したら、http://sahoru-s.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-1b02.html http://motoshimon.air-nifty.com/blog/2008/09/post-80af.html http://salon.stage007.com/header1008427/archive/38/0 http://naym1.cocolog-nifty.com/tetsuya/2008/10/post-07d1.html等が出てきた。