評価の仕方(メモ)

これまで「喜八」という方のことは全然注目していなかった。多分、伊藤仁斎に関してのちょっとアレなコメント*1に言及したほかは*2
さて、http://d.hatena.ne.jp/vanacoral/20090316#c1237210132 *3。このエントリーでは昨年問題になった城内実の発言*4が引用されているのだが、それに対して、「喜八」という人は、


城内実さんの文章に関しては、もっとも中核にあるのは、子供を「食いもの」にする
貪欲で下劣な大人たちへの激しい怒りである、と指摘させていただきます。
そういう城内さんが私(喜八)は好きなのですね。
ちなみに私は「城内実マンセー」でも「信者」でもありません。
城内さんにとっては「かなりウルサイ味方」だと思います。
城内実さんの支援者にはそういう人が多いのです。
ただし、「議論」を無闇に表にだすことはありません。
我々は現実的な政治集団であって「評論家もどき」ではありませんから。
と述べている。こういう評価の仕方というのもあるのね。レイシズムというのは「無闇に表にだす」べき問題ではないのか。何だか、セクハラ事件が起こったら「無闇に表にだす」ことなく揉み消して、被害者には泣き寝入りさせる組織みたいだ。また、同じエントリーでvanacoralさんが引用しているhttp://kihachin.net/klog/archives/2009/03/hanatora.htmlにはOh, Henry*5が言及されていて、Oh, Henryの「多様性を重んずる寛容の精神」が賞賛されている。この場合、「多様性」も「寛容」も、Oh, Henry及びその取り巻きが持つ反ユダヤ主義陰謀理論歴史修正主義を共有するという前提においてではないのか。「多様性」や「寛容」を重んじる人なら、城内実のあの発言に対して批判的なスタンスを採る筈だと思うのだが、違うのか。