シオニズムについて少しメモ

富岡幸一郎イスラエル建国60年について」http://yaplog.jp/tomi-kou/archive/107


曰く、「イスラエル国家の成立は、1900年の時を経てユダヤ人の父祖の地に国を再建するという出来事であり、歴史の現実とユダヤ民族の神的な啓示の垂直性が交差する出来事としても捉えなければならない」。「シオニズム運動は、そもそも近代的なナショナリズム国家主義と同一に考えるべきではない」。
果たして、そうか。アレント曰く、「簡単に要約すると、シオニズム運動は社会主義ナショナリズムという一九世紀の二つの典型的な政治的イデオロギーによって育まれたといえるかもしれない」(「シオニズム再考」、p.140)。つまり、「近代的なナショナリズム国家主義」そのものなのである。だからこそ、ユダヤ教保守派の指導者Rabbi Joel Moshe Teitelbaumは、ホロコーストシオニズムのような「神に対する謀反」を生みだしたユダヤ人に対する神罰として解釈した(Karen Armstrong The Battle for God*1, p.203)。

パーリアとしてのユダヤ人

パーリアとしてのユダヤ人

The Battle for God: A History of Fundamentalism (Ballantine Reader's Circle)

The Battle for God: A History of Fundamentalism (Ballantine Reader's Circle)

勿論、シオニズムにもスピリチュアルな次元があり、事後的には宗教と結びつけられもした。しかし、それは自由主義社会主義にもスピリチュアルな次元があることと同様ではあろう。ところで、ナショナリズムとしてのシオニズムという場合、アレントの用語でいえば、種族的ナショナリズム(tribal nationalism)*2の極として考えることができるのではないか(種族的ナショナリズムについては、『全体主義の起源』第2部「帝国主義」を参照)。「シオニズム再考」の中で、シオニズムの「根底にある民族哲学」について、

(前略)それは実際中央ヨーロッパの大部分の民族運動のイデオロギーであった。それは、ドイツ的精神をもったナショナリズムを無批判に受けいれたものにほかならない。このナショナリズムによれば、ネイションは不滅の有機体、内在的特質の不可避的かつ自然な成長の所産であり、また諸民族は政治的な組織体ではなく生物学的超人的人格とみなされる。こうした考えによってヨーロッパ史は相互に関係のない有機体の歴史に解体され、フランスの壮大な人民主権の理念もナショナリズムの求める、自給自足体制の主張と曲解される。シオニズムは、このようなナショナリズムの思想的伝統と密接に結びついていたので、国民形成の前提である人民主権に格別煩わされたことは一度もなく、むしろ初めからあのような空想的な民族主義的独立を望んだのである。(p.174)
と述べられている箇所をマークしておく。
The Origins of Totalitarianism (Harvest Book, Hb244)

The Origins of Totalitarianism (Harvest Book, Hb244)

ところで、近代以前からパレスティナユダヤ人はずっと住んでいたし、また帰還してもいたということは忘れてはならない。西班牙から追放されたIssac Luriaがカバラを創始したのはパレスティナのガラリアにおいてであった(The Battle for God、p.9ff.)*3
なお、1945年に発表された「シオニズム再考」の

もし、現状において列強がユダヤ人の郷土の創設を万一支援しようとするなら、パレスチナ全域とそこに住むすべての民族の要求とを顧慮するという幅広い理解を基礎に据えることによってのみそうすることができるだろう。他方シオニストは、地中海諸民族を無視して、遠くの大国だけを注目し続けるなら、たんに大国の手先、すなわち部外の、敵対的な権益の代弁者とみなされるだろう。自分たちの歴史を知っているユダヤ人は、次のことを銘記しておくべきだろう。つまり、そのような事態に陥ったらユダヤ人憎悪の再燃は免れえず、将来の反ユダヤ主義は、ユダヤ人はこの地域において部外の大国の介在によって利益を得ただけでなく、実際にはそれを仕組んだのだから、その結果に対して責任があると主張するだろう。(p.134)
という一節はその数十年後を既に予知している。