センテンスとディスコースの間?

http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20100619/1277013348


曰く、


我が家の息子の場合は、「読み」の問題をほぼ克服した小学校4年の頃から、今度は「書く」ほうを学校の専門の先生が徹底的に訓練してくださった。このための学区のシステムについては、過去の「学習障害」カテゴリーのエントリーを参照してほしいのだが、年に3回ほど開催する「対策会議」で、校長先生・担任の先生・スピーチセラピスト・特別学級の先生・心理カウンセラーなどと親が話しあってプログラムを作成し、普通学級の通常の授業の一部をけずって、特別な指導を受けられるようになっている。

具体的には、「単語を入れて埋めればできるような例文を何度も繰り返し作る」「それを組み合わせてより長い文章を作る」「テーマと中味を考えたあと、決まったパターンでそれを副テーマに分けて展開して、小論文を書く」といった、いわば「マニュアルどおりのモジュール的な文章を書く練習」を、根気よく繰り返してパターンを頭に叩き込む。息子は、口は達者で言いたいことはいつもたくさんあり、面白いモノの見方や言い方をするので、こうして先生の指導に従って機械的にでも小論文を書くと、驚くほど面白い文章が出来上がった。先生は、本人に向かってそういって褒め、本人が文章を書くのが楽しくなるよう奨励した。

話し言葉と書き言葉の間には深い溝があるが*1、それとは別の次元で、センテンスを構成することと複数のセンテンスからなるディスコースを構成することの間にも深い断絶があるのではなかろうか。センテンスを機械的に足し算していっても、ディスコースになるわけではない。文章が書けないというお悩みは多分、その溝を前にしてたじろいでいるということなのだ。また、話し言葉であれ書き言葉であれ、センテンスからディスコースへの飛躍の前提として、接続詞、特に従位接続詞の習得というのが重要なステップとしてあるだろう。例えば英語を習得する場合、ifやbecauseやalthoughを使いこなせるようになった前と後では、全然違う段階にいるといっていいだろう。論理学の言葉を使えば、一階から二階への飛躍である。それによって言語の現実からの独立があからさまになるわけで、これは当然英語における仮定法や仏蘭西語における接続法の習得とも関わってくるのだろうけど、ともかくこれがセンテンスたちを切り貼りしてディスコースを構成する能力の基礎になることは間違いないだろう。
さて、字が「汚い」かどうかは、言語能力とは、一点を除いて、また別の問題だと思うのだけれど、如何だろうか。一点というのは、「汚い」というよりもぎこちないというべきだろう。漢字の細部やスペリングを思い出しつつ、或いは辞書を引きながら書いていると、どうしても腕の運動の連続性が失われて、その結果、出力された字はぎこちなくみえる。勿論、そもそも横書き用にデザインされたものではない漢字や仮名を横書きで書けば、同様の理由でどうしてもぎこちなくなるということはあるけれど*2