「内向き」でいられるか

内田樹「「内向き」で何か問題でも?」http://blog.tatsuru.com/2009/01/05_1110.php


曰く、


先日、苅谷剛彦さんと対談したときに、日本のように「国内に同国語の十分なリテラシーをもつ読者が1億以上」というような市場をもつ国は世界にほとんど存在しない、ということを指摘していただいて、「ほんとにそうだよな」と思ったことがある。
「国内に同国語の十分なリテラシーをもつ読者が一億以上」いるということは、言い換えると、「日本語を解する読者だけを想定して著作や出版をやっていても、飯が食える」ということである。
日本人が「内向き」なのは、要するに「内向きでも飯が食える」からである。
「外向き」じゃないと飯が食えないというのは国内市場が小さすぎるか、制度設計が「外向き」になっているか、どちらかである。

例えば、私自身は「生きる日本問題」である。
私の思考の仕方そのものが「端的に日本人的」だからである。
私の考えていることの87%くらいは「日本人だから、こんなふうに考える」のであり、私がウランバートル平壌ブロンクスで生まれていれば,絶対に「こんなふう」には考えていない。
そして、私が「こんなふう」に書くのは、私が「日本語が通じるマーケットに通じれば十分」だと思っているからである。
だって、そこだけで1億3千万いるんだから。
私が幕末や明治の人の逸話を録するのも、60年代ポップスの話をするのも、こうやって正月テレビ番組の話をするのも、「それを(一部想像的に)共有している数万の読者」を想定できるからである。
その数万の読者のうちの10%でも定期的に私の著書を購入してくれるのであれば、私は死ぬまで本を書き続け、それで飯を食うことができる。
「たずきの道」ということに関して言えば、私にはぜんぜん世界標準をめざす必要がないのである。
「おまえの言うことはさっぱりわからんね」とアメリカ人にいわれようと中国人にいわれようとブラジル人にいわれようと、私はI don’t care である。
外国人に何を言われようと「明日の米びつの心配をしなくてよい」ということが私のライティングスタイルを決定的に規定している。
しかし、今の日本のメディアを見る限り、自分が100%国内仕様のライティングスタイルを採用しているということをそのつど念頭に置いて書いている人はあまり多くない(ほとんどいない、と申し上げてもよろしいであろう)。
内田氏がここで言っている、十分な「国内市場」を有しているということが例えばJ-POPの存立を規定していることは既に烏賀陽弘道氏が『Jポップとは何か』にて論じているところ*1エクリチュールという商品は音楽以上にそういう条件に強く規定されているということだ。しかし、その「国内市場」は安泰なのだろうか。それに関しては、遺憾ながら賢者である内田氏よりもDQN池田信夫*2に分があるようだ。但し、私が着目しているのは池田の言及する「輸出産業が総崩れ」ということよりも、もっと構造的な問題だが。例えば、所謂〈格差社会〉。経済的な格差だけでなく、リテラシーの格差の拡大は文化産業にとっての「国内市場」を縮小させる。構造改革マンセーする論者はそのことによって言論という商品の市場の存立を掘り崩していることになる。
Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)

Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)

さて、「国内市場」が安泰でない一方で、日本的な文化商品の市場は(これも当たり前のことだが)完全に閉じられているわけではない。よく(自虐的或いは自尊的に)日本語は「難解言語」だとか言われることがあるが*3、それは寧ろ日本語ネイティヴDQN化へのエクスキューズに相応しいだろう。内田氏はいう、

「おまえの言うことはさっぱりわからんね」とアメリカ人にいわれようと中国人にいわれようとブラジル人にいわれようと、私はI don’t care である。
外国人に何を言われようと「明日の米びつの心配をしなくてよい」ということが私のライティングスタイルを決定的に規定している。
これはその「アメリカ人」や「中国人」や「ブラジル人」が日本語を読めるということを前提としている。何せ、内田氏の本の英訳本も中訳本も葡萄牙語訳本も出ていない筈だから(韓国語訳は出ているらしい)。