コミュニタリアニズム(メモ)

齋藤純一、阪口正二郎「誰にとっての「自由」なのか」『世界』2007年1月号、pp.92-102


ここから齋藤純一氏のコミュニタリアニズムについての発言をメモ;


英米と日本のコミュニタリアン共同体主義者)のいちばんの違いは、英米では中間団体つまり、国家規模の共同体ではなくて、さまざまな宗教的な共同体や文化的な共同体の再生が主張されていることだと思います。人と人との人格的な関係性を重視する。他方、日本のコミュニタリアンの場合、中間団体ではなくて国民共同体としてコミュニティを声高に語る。国民というのはそれこそ互いに疎遠な他者からなる「想像の共同体」ですから、共同的な価値を国家レベルで定義して、それを下に降ろしていくというベクトルがどうしても強くなります。
(略)日本においてはむしろ共同体的な拘束から退出する自由がこれまで充分に保証されてこなかったにもかかわらず、共同体主義的な価値観が再び強調され始めているということに大きな問題があります。国民共同体によってきちんと包摂された諸共同体への再−埋め込みという話になれば、個人の自由は間違いなく窒息します。(p.98)
コミュニタリアンの代表的な思想家としてはチャールズ・テイラーがいるのだから、「英米」だけでなくカナダを付け加えるべきではあろう。また、齋藤氏の発言からもコミュニタリアニズム多文化主義とは不可分のものであることがわかる。さて、ここでいう「国民共同体としてコミュニティを声高に語る」「日本のコミュニタリアン」をテイラーやサンデルと同じ準位で語っていいものかどうか。
因みに「英米」のコミュニタリアンがいう「共同体」には、通常社会学ではアソシエーションとして論じられている労働組合などの組織も含まれている。まあ、「中間団体」の再生ということ自体、社会学的伝統においてはエミール・デュルケーム以来のテーマではあるのだが。
See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070301/1172726884 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070321/1174455126 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070615/1181870342 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070713/1184301731 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080208/1202446852

また、コミュニタリアニズムリベラリズムとの論争に関して、中国のテクストとして、


顧粛「全面認識個人與社群的関係――評自由主義與社群主義的争論」(『理想国以後』江蘇人民出版社、2006、pp.213-225)
顧粛「個人、社群與人類共識――囲繞基本政治理念普適性與特殊性的当代争論」(『理想国以後』、pp.226-241)


をマークしておく。後者に曰く、「従広義説、社群主義是一種自由主義、只是強調社群的特殊性、但却従未否認個人権利並走向絶対的国家主義和極権主義」(p.240)。