- 作者: 保坂和志
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2006/03/28
- メディア: 文庫
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保坂和志『カンバセイション・ピース』からの引用;
創世記で「はじめに神は天と地を創造した」と言っているけれど、ユダヤ民族だけでなく他の民族でも、「世界のはじまり」ということが心に浮かんだときに、同時に神が存在しはじめたということなんじゃないかと思った。
神がこの世界を造らなくても、この世界のはじまりという、人間として経験することのできない時間にまで考えが延びていくということ自体が、神という媒介項なしには起こりえない。時代とともにそれがいろいろと洗練されて、いまでは「一五〇億年前のビッグバン」という言い方になっているけれど、そんな膨大な数を「一五〇億」なんて、たったの一言で言えてしまうことが時間を俯瞰するということで、そのとき人間は時間の外に立っている。それは動物には不可能で、生物学的な肉体を持っている人間にも不可能で、神にしか可能ではないのだが神はいないのだから、その能力は人間の中で起こったことになる。
「世界のはじまり」でも何でも、一つの世界像を作るということが、創世記で神によってなされたとされているのと同等の行為で、だから現代科学もまったくその例外ではない。アインシュタインのE=mc2という数式は神を指さないけれど、宇宙の根本法則という発想そのものが神なしにはありえないのだから、科学は神という媒介項を使って神がいない世界を描くという、起源として矛盾したことをしていて、私はそういう世界に生きている。(pp.472-473)
さっきは感じなかった金木犀の香りがいまは二階でもはっきりと感じられた。世界のはじまりという経験できない一点にまで考えを延ばすことを人間にさせた神という媒介項は、純粋に人間の中から生まれたと言えるのだろうかと思った。
神とは人間が世界像を作るために必要とした媒介で、それによって世界像を持つ前の人間が持った後の人間に橋渡しされた媒介項でもあるのだが、何のきっかけもなしにそんなことが起こらないとしたら、それは他の動物と同じように世界と密着していた状態から人間が切り離されたということで、神はそのとき生まれたのだろう。切り離された世界と新しく連絡をつけるための媒介項として人間は神を必要としたのだが、しかしその媒介項たる神こそが人間を世界から切り離した動因だった。しかし神が切り離したのではなく、切り離しという出来事の最中に神が生まれる。
それらはすべて一緒に起こり、それらの出来事はすべていまでも起きたときの力を持ちつづけている。なぜなら、神を媒介項にすることなしに生まれない世界像という認識を人間は手放すことができないでいるのだから。世界からの切り離しが起こる前なら世界像なんて関係ないし、切り離しが完成した後もまた世界像は必要とされなくなるだろう。人間と世界はにゅうぅぅぅぅぅと伸びた水飴のようにつながっている。しかしそんな視覚的にわかるようなものは現実の人間と世界のあいだには何もないのだから、その関係は視覚的なイメージを投げ捨てなければ感じることができない、というか理解することができない。感じるのではなくただ理解する、という理解の仕方がきっとあるのだ。(pp.478-479)