広すぎて狭すぎる

インターナショナリズムとコスモポリタニズム」http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20080822#p3


多分http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20080821#p1に対する反論だと思うのだが、曰く、


インターナショナルという語感は「国家・間」というイメージを離れ難いものです。国際的連帯というあり方は考えられますが、それにしても「国を無くす」のではなく「国の違いを超えて・国どうしが」という見方が素直なものだと思われます。


 国家の枠を超えた国際主義的な観点(あるいは理想)を持つ方は少なからずいらっしゃるでしょうが、それがコスモポリタニズムなのかインターナショナリズムなのかによって話は違ってくるはず、ということは以前にも書きました。私はこの二者で言えば後者に近い立場だと思います。

 ⇒ http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20050731

 ⇒ http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20051029#p2

先ず、主観というものが間主観性においてしか存立しないように、またテクストというものが間テクスト性においてしか存立しないように、ネーションも間ネーション性(internationality)においてしか存立しないだろうということはいえる。
ネーションというのはどうも広すぎると同時に狭すぎるという感じがする。とはいっても、「国を無くす」かどうかを問題の焦点にするというのもどうかなと思ってしまう。「国を無くす」*1と意気込んでも、そのことによって、却って「国」というのを特権化してしまうということになりかねない。そうではなく、ネーションというのが私*2が参入している、或いは巻き込まれている諸々のコミュニティの一つでしかないということを肯定することが肝要かと思う。
また、現代の「コスモポリタニズム」が「国を無くす」ことを目標としているかということは疑問の余地が大いにあるといえそうだ。例えば、Kwame Anthony AppiahのCosmopolitanism*3。これは「国どうしが」という意味での「インターナショナリズム」と一概に矛盾するわけでもないだろう。何しろ、Kofi Annan氏が推薦の言葉を寄せているわけだから。
Cosmopolitanism: Ethics in a World of Strangers

Cosmopolitanism: Ethics in a World of Strangers

さて、ネーションを相対化するアフリカ流の仕方には「部族」がある。和崎春日「できていた「国家」と選ぶ民族――アフリカ民衆の生活戦略――」(in 『せめぎあう「民族」と国家』*4、pp.183-210)では、カメルーンの「バムン」という部族が外部の者に「王子」の称号を与える儀礼を通して、「国民国家」や異族を部族に取り込んでいく実践が描かれており(p.192ff.)、興味深い。

*1:ここでいう「国」というのは、countryでもなくstateでもなく、nationなのだろう。

*2:ここでいう「私」は、この文を書いている当の人物という意味であるとともに、現象学的私(意識存在一般)でもある。

*3:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080424/1209010822 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080614/1213466126 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080619/1213899344

*4:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080619/1213846922