ブレヒト、そして荒井由美とか

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080810/1218388851で引用した村山俊之氏のエントリー*1に、


人ってのは不思議な物で、自分には現状不可能なことほど、「何らかの努力によって可能にできる」ものだと思ってしまうもののようです。あるいはそう思いたいのでしょう。
という箇所あり。どうも、「非モテ」言説では、主観的或いは客観的な必然性に自己及び他者を封じ込めているという印象が強い。「何らかの努力によって可能にできる」というのは勿論主観的な必然性である。これは「陰謀理論*2な人も同様。その人たちは世界に偶然性ということがあるのが認められないようなのだ。
さて、ブレヒト高橋悠治訳)の「人間の努力は長続きしない」;

頭つかって生きようたって
頭でかえるのはシラミだけ
ひとはこの世のゴマカシすべて
気がつくほどにずるくはない


計画立てて わかったつもり
裏まで読んでも 両方ともはずれ
この世はそんなに悪くはないのに
もっとほしがるのが悪い癖


しあわせもとめ 駆けだすときも
走りすぎて しあわせを追い越すな
ひとはとかく欲にめくらみ
努力のつもりも 思い込み

いちめん菜の花

いちめん菜の花

ところで、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080714/1216008269で、


管見の限り、「非モテ」系の言説ではあまり触れられていないようだが)恋愛関係が開始されることにとって真の困難は出会って親密な関係が築かれた後にこそある。私見によれば、親密な関係を築くことはそんな難しくはない。しかし、そこから恋愛関係に飛躍するのは様々な意味で困難だと思う。特定の人との、一緒に映画やアートを観たり、一緒に食事をしたり酒を呑んだりという生温い関係はとても心地よいし、また癒されるものだ。この生温い心地よさに浸ってしまうと、却って恋愛関係は開始されない。
と書いたところ、「非モテのことが微塵も分かってないなあ。まず誰とも親密な関係までいかねえのが非モテだろう」*3という批判を受けた。これには世代的なファクターが絡んでいるのかも知れない。松任谷になる直前の荒井由美の歌2つを思い出す。

あなたの気持ちが読み切れないもどかしさ
だからときめくの
愛の告白をしたら最後
その途端 終わりが見える
いわぬが花
その先はいわないで


次の夜から欠ける満月より
14番目の月がいちばん好き
(「14番目の月」)

それから「天気雨」とか;

波打ち際をうまく
濡れぬように歩くあなた
まるで私の恋を
注意深く避けるように
きついズックのかかと
踏んで 私 前をゆけば
あなたは素足を見て
ほんの少し 感じるかも
14番目の月

14番目の月