忠臣蔵から「ズンドコ節」まで

http://www.ten-f.com/zundokobushi.htm


某所にて知る。日本における「桜」の文化史とでもいう趣の記事。
ひとつ突っ込むと、「ズンドコ節」の元となった「海軍小唄」を巡っての箇所;


花は桜木 人は武士 語ってくれた人よりも
  港のすみで泣いていた 可愛いあの娘が目に浮かぶ


陸軍の「軍歌」が、飽く迄も軍人の本分について権力の立場から「建前」を押し付けようとしているのに対し、こちらは海軍の軍人それも徴兵され故郷を離れざるを得なかった一兵卒たちが、勝手に巷で歌われていた(かも知れない)戯れ歌の節回しを採譜し、それに「軍人」としての心得などではなくただの庶民、一個人としての生の感情を表した、言わば己の素顔を曝け出した本音とも言える歌詞をあてはめ、誰彼となく歌い続けているうちに「海軍」「小唄」に成長したものだと管理人は推理しています。そして何より、この歌が「恋の歌」であることが先の軍歌との決定的な相違点でもあります。そこには、自分の帰りを「待ってくれている(であろう)」人への、遣り切れない思いが込められているのです。更に言えば、本当は、そのように「待ってくれている」人がいない者にとって「そうであれば」良かったのに、という願望も込められていたのかも知れません。更に重要な点はゴチックで記した歌詞の部分で「花は桜木 人は武士」を語る人が否定されている、つまり建前の綺麗ごとだけを言う「人」(世間体を気にする一般常識人=大人)の意見よりも、優先される存在が別にあるのだ、という考えがはっきりと歌われている点です。

「先の軍歌」とは「歩兵の本領」という歌――「万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男児と生まれなば 散兵線の花と散れ」。問題は「海軍の軍人それも徴兵され故郷を離れざるを得なかった一兵卒たち」という箇所。海軍は全員志願兵だった筈。徴兵された者は自動的に陸軍に配属された筈。
海軍の兵隊は(徴兵されたのではなく)自ら志願したということにおいて、エリートを自負していた。海軍への敵意というのは、例えば佐藤卓己言論統制』の主人公である鈴木庫三に顕著なのだが、近代における〈庶民vs. エリート〉という対立のひとつの変奏であるともいえる。「「丸山眞男」をひっぱたきたい」ならぬ〈海軍をひっぱたきたい〉? 海軍といえばOh, Henry*1に「売国奴」として集中攻撃を受けているけれど*2、これも(少なくとも信憑性構造[plausibility structure]ということでは)上の対立と関係があるだろうか。また、日本史のパラドクスとしては、(陸軍に比べて)合理的・近代的であったとされる海軍が最後には特攻隊という(陸軍以上の)非合理を生みだしたということか。
言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)

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