It's Only Talk、指の快楽など

イッツ・オンリー・トーク (文春文庫)

イッツ・オンリー・トーク (文春文庫)

絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』を読む。表題作と「第七障害」が収められている。
表題作は「直感で蒲田に住むことにした」(p.9)という文から始まる。大田区蒲田を舞台にした話と一応はいえる。主人公=語り手の「私」(「優子」)は大学を出て、新聞記者になり、一時は羅馬特派員にもなったが、やがて精神を病み、「出会い系のバイト」を経て、現在は売れない「画家」。また、「メンタル系の病気のサイト、つまり躁鬱や神経症の人間が集まるホームページ」(p.50)を主宰してもいる。
小説は、「私」と「私」の大学時代の友人で都議会議員の「本間」、「私」が「出会い系」時代に知り合った「痴漢」、ヤクザの「安田昇」を初めとするメンヘル仲間、福岡から東京に出てきた元「ヒモ」で自殺未遂者の「私」の「いとこ」「祥一」といった男たちとの緩くて曖昧な関係が語られる。小説を貫く大きな時間の流れは、「本間」が立候補して再選される都議会議員選挙ということになるか。この選挙には「祥一」も「ボランティア」として参加する。とはいっても、この小説は政治小説ではない。また、「祥一」と選挙にフォーカスすれば、脱社会化した人間の社会復帰の物語ということもできるだろうが、それに還元してしまうことは勿論できない。「イッツ・オンリー・トーク」である所以だ。上で言及した以外に、個々で考えればかなり深刻なエピソードを多く含むのだけれど、それらをひっくるめて「イッツ・オンリー・トーク」と相対化してしまうクールな語り口はなかなかいいと思った。
ところで、この小説ではセクシュアリティに関して、所謂〈棹の快楽〉よりも〈指の快楽〉が強調されている。「本間」はEDでもあるのだが、


ふざけた長いキスをしたり喋りながら煙草を吸ったりその間に胸や太腿に触られるのは楽しかった。童貞の本間は私の生殖器を一分三十秒凝視した。それから恐る恐る指を入れたけれど、ぎこちなくかきむしるような指の動きがかえって刺激的で私は隣の部屋のことも忘れて大きな声を出した。
やがて私が終わると本間は気が遠くなるほど長い間私の髪を撫でていた。その手の厚みがわかるような重さを、目を閉じて味わった。短いまどろみの中で大型犬になった夢をみた。性的なものでなく、とろりとした幸福感があった。そういうことがどんなに女にとって大切なものなのか本間が知っているとは思えなかった。(pp.21-22)
また、「いとこ」の「祥一」と;

一度だけニアミスしたことがある。祥一がネットをやっていて私はもう寝る前で横に座っていた。最初はからかっているような感じでデコピンとかしていたのだが、それがモーションとなってなんとはなしに始まってしまった。それにしてもスムーズすぎた。頭はずっとクリアなままだった。
「いいのかなあ、こんなこと……」私の中に指を入れながら祥一が言った。
「……だって、はじめちゃったんだもの、仕方ないよ」私はその手を動きやすくするために腰をずらした。
「優子ちゃん、俺に恋愛感情持ってるの?」
左側だけブラウスを脱がせて胸に顔を埋めながら祥一がくぐもった声で言った。片方だけ肩にひっかかっているブラジャーの紐の気持ちになった。脱がせてほしい。でも、笑いながらおしまい、とも言える。中途半端な気持ちだった。
「なんで、してる時に言うのよ」
「してる時に笑うな」
「ああもう、じゃあ……笑わないから、してよ」
「でもさ、もうやめるよ、ごめん。もうしない」
「別にどっちでも、あたしは」
「いや、やっぱ居候が家主としよったらまずいよ」
目をそらして服を着直した。それから、
「あんたもう寝なさい。おやすみ」と言って追い出した。本当はどきどきしていた。まだ迷っていた。(pp.40-41)
さて、この小説で終始鳴り響いているのはキング・クリムゾン

(前略)変な顔の車だなあ、と祥一は笑いながら右側の助手席に乗った。空港の中をぐにゃぐにゃ走るドライブは彼の気に入ったようだった。寝てもいいよ、と言うと、少しだけレストを倒してこの音楽は何? と聞いた。
キング・クリムゾン
「変なの。不気味だよ」
「あんたのメールの方がよっぽど不気味だよ」
エイドリアン・ブリューのギターが象のトークをやっている。祥一にはその良さが判らないらしかった。(pp.33-34)
また、最後のパラグラフ;

私は振り返らずに車に戻る。エンジンをかける。今日もクリムゾンだ。ロバート・フリップがつべこべとギターを弾き、イッツ・オンリー・トーク、全てはムダ話だとエイドリアン・ブリューが歌う。(p.96)
「第七障害」というタイトルは、

早坂順子は馬を殺したことをいつまでも苦にしていた。
群馬県馬術大会の障害飛越競技、成年女子決勝(ジャンプオフ)の第七障害で順子は一メートル三十のダブル障害の飛越に失敗して、派手な人馬転をやった。馬と自分が乖離し、落ちていくところを、彼女はコマ送りの映像で覚えている。彼女が地面にたたきつけられたところに馬が降ってきた。下敷きにはならなかったものの、馬が立ち上がろうとする前肢に左腕を踏まれかけ、彼女は骨折して救急車で運ばれた。馬は右前肢を複雑骨折していて、駆けつけた獣医に予後不良と診断され、順子の所属するRC群馬の柴田勇介の判断で安楽死の処置がとられた。ゴッドヒップという名の栗毛の牡馬だった。(p.99)
に由来する。
その後早坂順子は高崎から東京に戻り、高崎時代の警察官の元カレにストーカーされたり、「柴田勇介」が急死したり、東京に出てきて「世田谷通り沿いのケーキ屋」(p.120)で働いている、高崎時代の乗馬仲間の「永田篤」と再会したりして、最後は「永田篤」と関越自動車道を遡り、「国道145号線を須川橋から六合村方面へ右折して292号線を北上」(p.174)し、「等高線を結んだ形で結んだ形の湖を見下ろせる場所」(p.175)へ行き、「永田篤」との恋愛が本格的に始まりそうな気配がするところで終わる。
全篇に漂うのは、稀薄ではあるが確実な喪失感、特に〈故郷喪失〉の感覚。
また、この小説には固有名詞(特に地名)が溢れているといっていいが、それにも拘わらず、「名前なんかつけなくていいの。物事に名前をつけるから全ての間違いがはじまるんです」(順子、p.173)という「名前」に対するスタンスをマークしておく。

中山可穂『弱法師』も読んだ。「弱法師」、「卒塔婆小町」、「浮舟」。タイトルの通り、どれも謡曲にインスパイアされたもの。「卒塔婆小町」は話がちょっとベタすぎるか。しばらく能を観ていないので、お能が観たい。

弱法師(よろぼし) (文春文庫)

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