仏蘭西についてメモ

先ず、小泉義之氏;


初めて翻訳されたドゥルーズの著作は、一九七三年の蓮實重彦訳『マゾッホとサド』であった。初めて翻訳されたドゥルーズガタリの共著は、一九七八年の宇波彰・岩田行一訳『カフカ』であった。初めて翻訳されたガタリの著作は、一九八八年の杉村昌昭訳『分子革命』であった。想起しておきたいのは、ドゥルーズガタリの導入以前の哲学思想界の主流をなしていたのはドイツ系であったということである。哲学と言えばカントとヘーゲルであり、思想と言えばマルクス主義であった。少し広げてもやはりドイツ系であって、フォイエルバッハフィヒテシェリングフランクフルト学派ウェーバールカーチなどであった。私のバイアスのかかった記憶では、同じドイツ系でもニーチェフッサールハイデガーもマイナーであったし、フランス系のサルトルメルロ=ポンティは主としてマルクス主義の文脈で受容されていた。フランス哲学全般については、ポール・ニザンとともに「ブルジョアの犬」として切り捨てていたし、フランス思想については、戦中の軽井沢に淵源する教養主義は堪え難い腐臭を発していたし、フランス思想の頂点が渡辺一夫であると言われたところで何の使い道もないと受け止めていた。そして、当時の学生が履修した第二外国語にしても、ドイツ語の比率が他を圧倒して高かった。
http://d.hatena.ne.jp/desdel/20080314
日本において仏蘭西語がどのように知覚されていたか。以前引用した*1仏文学者の菅野昭正氏による太平洋戦争中の旧制高校の外国語教育を巡る言説を再録する;

ドイツは同盟国だからドイツ語は安泰、英語は真正面の敵性語学なのに流通範囲のひろさが買われたのか、授業時間の削減で片がついたらしい。しかるに、フランス語は敵性語である上、軟弱、頽廃的などと汚名を着せられたのか(それには、アヴェック、ランデーヴゥなどが歪められて濫用されたり、デカダンスのような健全な戦時風俗を壊乱する不穏な語が、幅をきかせていると買いかぶられたせいもあったのだろう)、いちばん厳しい受難に曝される。当時、フランス語を履修することができた高校は七校(高校の数は私立をふくめて全国で三十六校)、そのうち最上位の一高と三高については、辛うじて存続が認められたが、他の五校では(浦和はその部類)、完全に廃止されることになった。
ところで、私は大学に入って第2外国語は仏蘭西語にしたのだが、何故仏蘭西語にしたのかというのは自分でもよくわからない。ただ、独逸語には全然興味が湧かなかったということは憶えている。他の方々はどのような動機から第2外国語を選んでいるのであろうか。