Common or public?

小泉義之氏曰く、


 私の理解では、議員宿舎や議員歳費は、無収入・無資産の人であっても上京して議員活動を行なうことを保障するためのものである。無産者と有産者の経済的格差を公的政治の場面に持ち込まないために必要不可欠なものである。民間の宿舎や給与とは起源も意義も役割も全く違うものであって、ここで「民間並み」はあってはならない。
http://d.hatena.ne.jp/desdel/20071212

これについては、千葉真『デモクラシー』に古代希臘における集会への日当支給のことが言及されていたのではないかと思う。
デモクラシー (思考のフロンティア)

デモクラシー (思考のフロンティア)


他方、私の理解では、公共放送は無償であるべきである。放送内容に公共性があるなら(例えば、一年後に大隕石が日本列島に落下するぞといったような情報の伝達)、それを全住民に伝えるのは国家の責務であり、その代金を住民に求めることなどあってはならない。ところが、実際の放送内容には公共性は無い(たぶん、ありえない)。にもかかわらず、その代金を請求することは、ストリートミュージシャンが通行人に対して「自分の音楽は、皆の文化要求に応えるために演じているのだから、また、皆一人残らず〈千の風〉に感動するのと同じように自分の音楽にも感動するはずだから、耳を塞がないまま通り過ぎて、瞬時でも聞きとったからには料金を寄越せ」と言うようなものである。どう考えても「公共」放送は無用であり、これについては「民間並み」にすべきである。
「公共性」があってもなくても、「代金を請求する」ことはいけないといっているのか。ここでいう「公共性」は共通性によって定義されているのか。たしかに全き共通性を持つ放送内容は殆どありえないだろう。これはリバータリアンが公共的なものを攻撃する根拠にもなっている。しかし、「公共性」はある/ない、持つ/持たないということで語れるものなのかどうか。放送機関ということに話を限定すれば、寧ろ、1つの共通性に還元し得ない様々な関心に配慮するということにおいて、「公共性」は云々されなければいけないのではないか。私的な「民間」放送であれば、そのような配慮は必ずしも要請されない。市場原理や自らの主義主張が優先されても可なりということになるだろう。市場原理からははじかれてしまうような内容を放送することは、自らの存在の「公共性」に適った振る舞いであろう。例えば、NHKではプロ野球に関して、民放とは違って、パリーグの試合も平等に放送していた。勿論、多種多様な関心に平等に配慮すべきであるとはいっても、実際には周波数や放送時間という制約があるので、何らかの優先順位や線引きが必要だということになる。但し、その基準それ自体が公共的な討論に開かれていなければならないということはいうまでもない。また、これとNHKの受信料の是非とは別問題だと思う。ただ、NHKは受信料によって支えられていますというよくある宣伝には疑問がある。関連グッズの売上げ、番組放映権の民放や海外の放送局への売却、DVD化されたコンテンツの売上げはどうなっているのか。