承前*1
「卒論代行問題」だけど、やはり多くの人が言及している。その中から気になったもの。
最初のパラグラフはさもありなんと思う。問題はその次のパラグラフ。「問題の論文代行やレポート代行の利用者は実のところ、お小遣いをたくさんもらっている子供ではなく、こうした社会人学生でもありました」というけれど、『読売』の記事では「社会人学生」が「利用者」であるとまでは書かれていない筈。何か別の報道でもあるのだろうか。根拠なしにこういうことを断定してしまえば、「社会人学生」一般をスティグマ化してしまう可能性があるだろう。先ずは断定の根拠(ソース)を示すのが筋かと思われる。
忘れてはならないのが社会人の学生です。何の目的もなく大学に入った学生、親の金で大学に通っている学生と違って、自分の意思と自分の金で大学に通う社会人学生は一般的に意欲があると見られがちなのですが、私的な経験から言えばこれは全くの誤りでもありました。社会人の学生はとにかく勉強しない、むしろそんな印象があります。どうしてかというと、仕事が言い訳になるから、仕事を理由であるならば講義の欠席やレポートの遅れが許されるところがありまして、結局は仕事が第一、勉強は仕事を妨げない程度というのが一般的でした。この辺は私の経験上のことで、別の学部、別の大学ではまた違うかも知れませんし、社会人でも真面目に学ぶ学生はいると思います。ただ問題の論文代行やレポート代行の利用者は実のところ、お小遣いをたくさんもらっている子供ではなく、こうした社会人学生でもありました。収入はあるが仕事が忙しくて勉強する時間がない、そんな社会人学生が暇はあるが金のない貧乏学生や業者に課題の代行を依頼するケースもあるのです。
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/c404bab55ae679838cc8994898026a1d
ところで、別の方が「ボンクラ親爺の学生時代にはレポートは手書、もちろん卒論も手書でなければならなかった(=「卒論演習」があったので不肖の時代の代筆・代行ではおそらく筆跡でバレただろう)」と書かれている*2。これは大学によって違うのだろうけど、私の知る限り必ずしも自筆でなくてもよかったと思う。実は、私も卒業論文や修士論文の清書は他人に頼んだ。というか、ワープロ以前では、卒業論文や修士論文は如何にして清書要員を確保するかにかかっていたともいえるんじゃないか。当然、「筆跡」が違うのは明らかであり、「筆跡でバレた」というのはあり得なかったと思う(私の知る限りでは)。勿論、清書を他人に依頼するのも禁止という大学があった可能性も否定はできない。