先ずはhttp://d.hatena.ne.jp/saisenreiha/20070725/1185387998から。「貧者の尊厳」と題して、
非常に示唆に富む文章だと思う。ただ、「名誉(honor)」と「尊厳(dignity)」という2つの概念をほぼ交換可能なものとして使っているのはどうかなと思う。というのも、ピーター・バーガーはこの2つの概念を近代社会と前近代社会(伝統社会)を分かつメルクマールとして使用しているからである。その”On the Obsolescence of the Concept of Honor”という論文は最初1970年にEuropean Journal of Sociology, XIに掲載され(pp. 339-347)、その後The Homeless Mindに補章として再録された。
中近世の社会では、名誉は非常に重要なもので、自らの名誉を守ることは個人の義務でした。しかし、私の乏しい知識の範囲ではありますが、名誉の問題を扱う際には、主に貴族や上流市民、ギルド員などが対象になっているように思います。しかし、貧者にとっても、名誉は重要なものだったことには変わりがないのではないかと思います。ヨーロッパでは、中世末から近世にかけて、貧者に対する考え方が大きく変わりました。中世では貧者は、金持ちが喜捨をし、功徳を積むために必要な存在として社会の中で位置づけられていました。つまり、彼らは、必ずしも蔑まれるだけの存在ではありませんでした。しかし、中世末に貧者が激増し、浮浪者や乞食が都市にあふれるようになると、貧者を良い貧者と悪い貧者に分ける考え方が一般化していきます。つまり、病人や老人など働けず困窮している貧者は可哀想なので福祉の対象になるが、働けるのに働かないで怠けている貧者はろくでもない奴らなので、無理矢理にでも働かせないとならないと考えられるようになりました。こうして、貧困であることは、倫理的な罪になってしまったわけです。
この時、当然貧者を見る周囲の目は厳しくなり、貧者が名誉や尊厳を奪われたことは想像に難くありません。しかし、おそらく史料的な問題からでしょうが、貧者の内面が貧困研究で扱われることは余りないように思います。ただやはり、貧者の行動や態度決定を理解するために、彼らの内面を理解することは非常に重要であるように思います。特に、名誉を重んずることが人々の行動規範となっていた時代ですから、彼らが自らの名誉の保持をどう考えていたかは、彼らの行動を決定する重要な一要因だったのではないかとも思われます。
そのため、貧者が自己の名誉をどう捉えていたのか、名誉や尊厳を回復したいという願望はあったのかどうか、あったとしたらどれくらい行動に影響を与えていたのかなど、検討すべきことは数多いだろうと思います。私感では、おそらく貧者が自分の尊厳を最大化しようと思った場合、再洗礼派になることは、カトリックやルター派になるよりも合理的な選択であったと言えるのではないかと思っています。
The Homeless Mind: Modernization And Consciousness
- 作者: Brigitte Berger Hansfried Kellner Peter L. Berger
- 出版社/メーカー: Penguin Books Ltd
- 発売日: 1974/08/29
- メディア: ペーパーバック
- この商品を含むブログ (2件) を見る
- 作者: P.L.バーガー,B.バーガー,H.ケルナー,高山真知子,馬場伸也,馬場恭子
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 1977/10
- メディア: ?
- クリック: 2回
- この商品を含むブログ (3件) を見る
Penguin版から引用してみる;
The concept of honour implies that identity is essentially, or at least importantly, linked to institutional roles. The modern concept of dignity, by contrast, implies that identity is essentially independent of institutional roles. (…)In a world of honour, the individual discovers his true identity in his roles, and to turn away from the roles is to turn away from himself—in ‘false consciousness’, one is tempted to add. In a world of dignity, the individual can only discover his true identity by emancipating himself from his socially imposed roles—the latter are only masks, entangling him in illusion, ‘alienation’ and ‘bad faith’. It follows that the two worlds have a different relation to history. It is through the performance of institutional roles that the individual participates in history, not only the history of the particular institution but that of his society as a whole. It is precisely for this reason that modern consciousness, in its conception of the self, tends towards a curious ahistoricity. In a world of honour, history is the succession of mystifications from which the individual must free himself to attain ‘authenticity’. (p.84)
勿論現時点で読み返してみると、「歴史」の捉え方とか突っ込みたいところはあるのだが。ここでの引用に付け加えれば、重要なのは、個人を「役割」に結びつけることによって、より宗教的に言えば様々な守護聖人を介して神へと結びつけることによって、居場所を与えていたコスモロジーが、それを支えるplausibility structureとともに、機能しなくなった、或いは壊れてしまったということなのだろう。バーガーも”The modern discovery of dignity took place precisely amid the wreckage of debunked conceptions of honour.”(p.82)といっている。ここで詳述することはできないが、これは例えば「中世の教会は、白痴や狂人にすら、ちゃんとした意味と役割を与えていた」という田島正樹氏が
と述べていることと関係があるだろう。ここで、saisenreihaさんの言葉を、バーガーを踏まえつつ、言い換えてみると、「名誉」の基盤である「役割」或いは場所を失った「貧者」たちは「再洗礼派」において「名誉」の「残骸」とともに「尊厳」を見出したといえないだろうか。
一般に、近代政治哲学は(保守主義は例外だが)、教会の役割を国家に割り当て、信を知に、信頼を理性に還元しようとした。しかし、利己的・合理的個人が市場で取り結ぶ関係(対等で契約に基づく社会関係)をモデルにして,普遍化可能性や交換可能性や、同意や理性的説得(正当化)、社会契約などの観念に訴えて社会的規範や政治的行動を理解しようとするいかなる政治哲学も、死闘や決断や勇気といった旧い政治的観念を取り扱うことはできないし、信仰の問題を射程におさめることもできない。だからこそ、彼らはそれを魂の問題として、「内面」へと追放したのである。したがって、近代政治哲学はその根本においてプロテスタント的、または無教会主義的であるということになる。
http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/50815181.html
ところで、「名誉」が具体的であるのに対して、「尊厳」というのは抽象的である。或いは空虚で取り留めがない。保守主義者としてのバーガーは一方では「名誉の世界」へのシンパシーを表明しつつ、他方ではモダニストとして、近代の「尊厳」の発見に淵源を有する「人権」に関する「倫理的達成」を拒否することはできないという(pp.87-88)。どうすればいいのか。バーガーのここでの取り敢えずの結論は、「役割」を「自己を疎外する暴君」ではなく「自己実現のための媒体(vehicle for self-realisation)」として扱えという或る意味で妥協的なものである(p.89)。勿論、それは満足のいくものでも妥当なものでもないだろう。例えばhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070713/1184353368で言及したような危険に結びつくというのは容易に想像できる。取り敢えず言えることは、これは小田亮氏がいう「真正性の水準」*1とも関係するのだろう。「名誉」は日常的な挨拶から相互の贈与にいたる相互行為としての敬意によって維持されるわけだが、そこにおける「真正性」の恢復が問題となるのだろう。また、「尊厳」に関しては、本質存在ではなく現実存在の準位で見出されるべきなのだろう。それは社会(役割)を剥ぎ取られた寂しく空虚な自我(内面)ではなく、まさに社会の直中に見出されるものだろう。それもバーガーがいうような「自己実現のための媒体」としての「役割」や「制度」ではなく、李晟台氏が「類型化されるものは、類型化によって捉えきれない何かを指し示すのであり、その意味では類型化とは「知られる」の産出ではあるが、つねに「知られざる」に促され=否定されるような産出であるといわねばならない」というような仕方で見出されるものだということはいえそうである*2。
日常という審級―アルフレッド・シュッツにおける他者・リアリティ・超越
- 作者: 李晟台
- 出版社/メーカー: 東信堂
- 発売日: 2006/01
- メディア: 単行本
- クリック: 6回
- この商品を含むブログ (6件) を見る
ところで、Unni Wikanという方の”The honour culture”というテクスト*3を見つけた。上で引用したバーガーへの批判も含まれているようだが、まだ眺めたの以前。