「傘がない」なら

井上陽水が「傘がない」を歌ったときには、それを当時の若者のメンタリティと結びつけて云々する評論がけっこうあったらしいが、それとは関係なく、


傘という文化、ソフトの存在を前提として、「傘がない」問題を傘というハードで解決する、つまり「無」を「有」に変えることで成果と考えるのが「文明の利器」をつくる「技術革新」の考え方。ある問題への答えで競われる。

これに対して傘の有も無も分別しない、価値判断がない段階を、「傘というものがあったら良いじゃないか」と唱えて欲望を意識化する、それが「文化財」をつくる「文化開発」であり、問題を設定する行為それ自体は「空」を「無」に変えるものである。
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070713/1184306869

を引用する。
詳しくは『野生の思考』を再読してみなければいけないのだろうけど、
野生の思考

野生の思考

モノに対するスタンスには、「ブリコルール」的態度と「エンジニア」的態度があるようだ。上の例で言えば、「ブリコルール」は先ず〈雨を除ける〉という問題から出発して、自らの身の回りにあるものを使って、その場をやり過ごそうとするだろう。それは傘かも知れないし、新聞紙かも知れないし、香蕉の葉っぱかも知れない。「ブリコルール」はオリジナルの位置には立たない。彼/彼女にとってモノは既に具体的なものとしてそこにある。彼/彼女は既にあるものをその都度その都度、かっぱらったり使い回したりする。「ブリコルール」的な態度において、モノは(人間にとっての)機能から自由に存在しているといえるだろう。モノはその都度その都度の機能に応じて、「ブリコルール」に呼び出されるのだが、モノが「ブリコルール」の側に存在していること自体は機能とは関係ない。何故「ブリコルール」の側にモノがあるのかも明らかではないかも知れず、無理に答えなければならないときには、いつかは役に立つんじゃないとかまあちょっとカワイイからとか、いい加減に答えるほかない。それに対して、「エンジニア」的態度においては、モノは(最早モノではなく)抽象的な属性に還元され、「エンジニア」が設定したヴァーチュアルな目的(機能)に最適化された仕方で、抽象的な属性に還元されたモノどもが集められるということになる。「エンジニア」にとっては、モノが存在する理由は明らかだ。自らが設定したヴァーチュアルな目的(機能)に対して有用だからだ。逆に言えば、「エンジニア」にとって、〈役に立たないモノ〉が存在する余地はないといえるだろう。また、「エンジニア」にとっては、イデアが先にあって、モノはそれに従ってのみ存在するので、神のように完全に「「無」を「有」に変える」わけではないが、自らがオリジナルの位置に立つと思い込んでしまうこともあるのだろう。「ブリコルール」に戻ると、「エンジニア」が「設定したヴァーチュアルな目的(機能)に最適化された」製品も「ブリコルール」にとっては自らの周りに存在する沢山のモノのひとつにすぎない。その機能はその都度その都度見いだされる。「傘」だって、武器として使われるかも知れないし、ゴルフの練習に使われるかも知れない。
ところで、「開発」は「「無」を「有」に変える」ことではないだろう。勿論、一般に「開発」というと、地上げして、更地にして、何か新しいものを建てるというイメージがあることは承知している。英語のdevelopmentも写真の現像という意味があるように、潜在的な「有」を顕在的な「有」に変えることである。また、日本語の「開発」も(そもそもカイホツと読むべきなのだろうけど)本来は潜在的な佛性を開き−発すことをいう。その意味では、「ブリコルール」の方が「開発」の本義に近い振る舞いをしているということになりそうである。しかし、上でも述べたように、「エンジニア」も現実には「「無」を「有」に変える」ことをしているわけではない。それは究極的な目標であるかも知れないし、また主観的にそう思い込むことはあるのだろうけど、それは不可能であり、やはり潜在的なものを開き−発しているのである。とすると、〈開き−発し方〉が問題になる。それについて、ここではその端緒の端緒くらいは言及したが、本格的には(例えば)ハイデガー先生の門を叩くということになるのだろう。