火と水

承前*1


 http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/ir-ninshiki/lr-nihon-hidari.htm


様々な典拠を引っ張って、「古代日本における左優位」を主張する。取り敢えずマークしておこう。私としては、規範的な対立として(別に大本の関係者ではないが)火/水という対立を挙げておきたい。火垂/水際。
ところで、左と右というのは相補的であり、左なくして右は存立しないし、右なくして左は存在しない。また、誰にとっての左右かというのも重要である。私にとっての左は、私の正面にいるあなたにとっては右である。人間の所謂発達段階において、この左右の相補性を納得できるようになるのは何歳くらいからなのか。私の記憶では、小学校の低学年辺りまではこの左右の相補性がぴんと来なかったような気がする。左右の相補性を了解すること、これは発達心理学の議論、またそれを踏まえたメルロ=ポンティの思考では、幼児的な自己中心性が脱中心化されて、大人の社会的世界へ参入する端緒ということになる。また、社会学的には、他者の視点(役割)を取得する能力とも関係しているだろう。また、これは〈地図を読む能力〉とも関係しているのではないかとも思う。地図を読むというのは、地図作者の視点に同化して、その他者の視点の中に自己を位置づけるという作業である。勿論、それは実際に自分がいる三次元的空間と紙という二次元的空間を隠喩的に対応させる能力を前提としているわけではあるが。
左右ということで、アーシュラ・K・ル・グィンの『闇の左手』も最後にマークしておこうか。