「絶対的な「美」」


「ともあれ大貫妙子の声とメロディーには絶対的な「美」があり、「美」に対してわれわれができるのはひたすら陶酔することだけだ、と文化本質主義的なことを書いてみよう」*1という言葉を発見する。「絶対的な「美」」が現出するのはetreではなくexistenceの準位なのだと言い直そう。
それと、J-POPの多くの曲には日本語の歌であることの必然性が欠けている。しかしながら、大貫妙子の歌を聴いて先ず感じるのは、それが日本語の歌であることの必然性だ。これって「文化本質主義」?
『Boucles d'oreilles』*2を聴きながら。

Boucles d'oreilles (ブックル ドレイユ)

Boucles d'oreilles (ブックル ドレイユ)

それにしても、「黒のクレール」を聴くときに誰もが感ずるであろう、あの背中のぞくぞく感って何?