国家と性別

「国家はカーチャンなり」*1ということだが、日本は世界でも(少なくとも東亜細亜では)例外的といってもいい国だということに気づいた。とはいっても、仏蘭西語の文脈においてだが。日本を取り囲む国々、韓国(朝鮮)、中国、露西亜、米国というのは女性名詞である。しかし、日本(Japon)は男性名詞。台湾はどうかというのは知らないのだが、台湾の別称のFormosaというのはその語形からいって、女性名詞だろう。辞書を捲っていたら、男性名詞の国として、ほかにはイラクがあった。だから、「国家」が日本を指す場合、「カーチャン」ではなくトーチャンとしないと仏蘭西語の試験は通らない? 固有名詞ではなく普通名詞としての国はどうかといえば、英語のcountryに当たるpaysは男性名詞、stateに当たるetatも男性名詞であるが、nationは女性名詞である。「国家はカーチャンなり」という場合、etatなのかnationなのかということも考えなければならないのかも知れない。ところで、日本語にはらから(同胞)という言葉があるが、そもそもは同じ母親から生まれたきょうだいを指し、また同国民という意味もある。同胞を国民の意味で使うのは日本語だけでなく、中国語もそうなのだが、同胞を生んだ「胞」というのはまさに「カーチャン」としての「国家」=nationということになるだろう。そうした使い方は近代ナショナリズム勃興以降のことなのだろうか。
「国家はカーチャンなり」であと思い出すのは、アレントが『人間の条件』で論じた所謂「社会の勃興」問題である。アレントが論じる「社会」とはぶっちゃけ国家の家族化であるが、それは〈父親的〉であるよりも〈母親的〉である*2。ハンナ・ピトキンさんはアレントの「社会」論にアレント家の母娘の確執を読み取ったりするのだけれど、勿論それには還元しきれる筈もない。

The Human Condition

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The Attack of the Blob: Hannah Arendt's Concept of the Social

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*1:http://d.hatena.ne.jp/sean97/20070530

*2:そういえば、明治後期の大日本帝国第一の危機に際して、〈家族国家論〉が喧伝された。