Authenticityを巡るあれこれ

小田亮氏がレヴィ=ストロースの「真正性の水準 niveaux d’authenticité」という言葉を巡って、「「ほんものだ」といった手に触れることの出来るような確実性や直接的な手ごたえといった感覚的なものが、このauthenticity/authenticitéという語にはあり、他の語ではレヴィ=ストロースのいう「媒介されることによる(あるいは代表=表象されることによる)真正性の欠如(「まがいもの」らしさ)」と区別された、触感的な「ほんものらしさ」を表わすのに適切と考えたのでしょう」と述べている*1。これを巡って私に思いつくのは、想像に対立する知覚(直観)ということか。
ところで、そのコメント欄でmacbethさんという方が


ところで、小田さんが言及された「本質主義批判の文脈で、authenticityやauthentic という語は、本質主義が用いる語として評判が悪かった」で気付いたのですが、サルトルの用いた《本来的実存》が《authentic existence》(本来性は実存主義の中心的概念)だったこと。さらに『野生の思考』の最終章で「あえてサルトルの用語のいくつかを借用してこの本を書いた」との書き出しで始められていたことに気づきました。
レヴィ=ストロースサルトルの用いたauthenticを用いることで、サルトル批判を通してフッサール批判、さらにはプラトニズム批判をしようとしていたのかも(だとするとポストモダニズムからのレヴィ=ストロース批判はなんだかめっきりと色褪せますね)。もう一度読んでみることにします。
と書かれている。
ここで取り敢えずメモしておかなければいけないのは、「真正性」が登場するのは『野生の思考』よりもかなり前に書かれた『構造人類学』所収のテクストだったということ。また、レヴィ=ストロースのいう「真正性」を、晩年のフッサールが辿り着いた生活世界への帰還に引き付けて思考することも可能ではないかということ。
構造人類学

構造人類学

野生の思考

野生の思考

ところで、唐突かも知れないが、ここから常々アルフレート・シュッツによるUmweltとMitweltの区別を連想してしまう*2。しかしながら、シュッツのAufbau*3が公刊されたのはさらに遡って1932年。
社会的世界の意味構成―理解社会学入門

社会的世界の意味構成―理解社会学入門

 シュッツとレヴィ=ストロースとは思想史的には無関係の関係ということになるのだろう。勿論、紐育のNew Schoolという場で顔くらい合わせたことはあるかもしれないが。また、この2人にはモーリス・メルロ=ポンティという共通の知人がいる。但し、西原和久先生(『自己と社会』)の調査によれば、シュッツとメルロ=ポンティの関係には険悪なものがあった。
自己と社会―現象学の社会理論と「発生社会学」

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