「属性」から逃れられるか


属性を嫌ったり憎んだりするのは、実は楽なんだ。その相手本人と直接対峙しなくて済むから。


この歳になると、ひと本人と対峙することがそう苦痛でなくなって、誰かを嫌ったり憎んだりすることも自分自身の重荷として直接自分で担えるようになったから、属性だけで判断しないようにしよう、という心がけができるようになった。しかし、やはり若いころというか、思春期にはなかなかそうはできなかった。

男は云々。大人は云々。社会は云々。etc.

レッテル貼りともちょっと違う。レッテル貼りは、まずそこに一人の人がいて、その人をジャンル分けしてそのジャンル・属性で判断する、という行為。

属性を嫌う、憎むのは、そこに人がいてもいなくても、その属性自体に対して判断している。つまり、実際に存在する人を嫌ったり憎んだりしなくても済む。

人を嫌ったり憎んだりするのは、やはりネガティブなエネルギーを発するものだし、それに伴う罪悪感やら自分自身に対するネガティブ感もしばしば伴うし、嫌った相手からネガティブな反応を引き出す可能性もあるわけで、やっぱりできればしないほうが自分も結局楽だ、と思う。いや、思っていた。

ありがたいことに、属性自体はなんの感情ももっていない概念にすぎないから、それを嫌ったり憎んだりしても、自分に直接的に戻ってくることはないし、感じる罪悪感も少ない。
http://d.hatena.ne.jp/azumy/20070407/1175915311

ここで「属性」といわれているのは、(パーソンズ流に)達成(achievement)と対立する「属性(ascription)」ではなくて、(私がよく使う言葉でいえば)誰(who)に対立する何(what)ということだろうか。或いは、類型(type)。類型に関して、少し前に、

ミニマムな「抽象化」或いは「類型化」がなければ、実は「体験」だって「体験」として意識に留められるということはできないように思う。以下で述べることを先取りしてしまうかも知れないが、「体験」は経験の中の割り切れない残余、濁りとして見いだされるということになるか。また、私たちは能動的に「抽象化」「類型化」しようとするというよりも、基本的には受動的に「抽象化」「類型化」されたものとして「体験」でさえも(「体験」だからこそ)「体験」しているということになる。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070324/1174748697
ところで、たしかに「属性を嫌ったり憎んだりするのは、実は楽なんだ」ということはいえるのだが、逆に「属性」とは全く関係のない生の「相手」を「嫌ったり憎んだりする」ことというのは可能なのだろうか。換言すると、裸の「その相手本人と直接対峙」するということは可能なのだろうか。
これって、或る意味で〈永遠〉の経験でもあるのだと思う。〈永遠〉といえば、アルチュール・ランボー

Elle est retrouvee!
--Quoi?—l’Eternite.
C’est la mer melee
Au soleil.
熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』、p.238から孫引き)
西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

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熊野氏は「ランボーのこの答えを、哲学者たちがただちに共有することはできない」という。しかし、ランボーの詩句が「永遠(L’Eternite)」を論理的に叙述していることはわかりやすいだろう。つまり、「海(mer)」と「太陽(soleil)」という「属性」の区別の失効。「永遠」は「属性」の区別の失効として経験されるだろう。これは死の経験でもある。これを生きるためには、(ジャン=ポール・ベルモンドみたいに)ダイナマイトを自分の顔に巻かなければならない。
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ところで、「属性」というのは存在にとっては常に部分でしかないし、「属性」をいくら足し算していっても、存在には辿り着けない。常にremaindersが出てくる*1。或いは、何ではない誰というのはそのremaindersとして指し示されるといえるかも知れない。〈差別〉という社会現象において問題なのは、部分でしかない或る属性が全体である存在を隠蔽してしまうこと、或いは全体を僭称してしまうこと*2。その意味で、「知的障碍者」差別を巡ってblog界が盛り上がった頃に書かれたhttp://d.hatena.ne.jp/terracao_nova/20070222/1172083220はとても興味深い。