黄帝紀元

先ず時事通信の記事なり;


西暦ではなく「黄帝紀年」を=ネットで提唱、反論も−中国

2月3日15時1分配信 時事通信
 【北京3日時事】「各民族には固有の紀元がある。中国は西暦ではなく黄帝紀元を用いるべし」−。中国の大学教授らが1月末、中華民族の祖とされる伝説上の帝王、黄帝の誕生年を起点とする「黄帝紀年」をインターネット上で提唱した。大国化に伴って高まる中華ナショナリズムの発露と言えるが、「奇をてらった考え」とする批判も出ている。 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070203-00000071-jij-int&kz=int


熊培雲「恢復黄帝紀元是多此一挙*1」『東方早報』2007年2月5日*2

曰く、


中国辛亥革命後的次年(1912年)起採用公暦月、日、到1949年中華人民共和国採用公元紀年制度、都是基於“便統計”、“便於交流”等考慮。到今天、中国使用公元*3已近百年、為了一個虚無縹緲*4的伝統而啓用黄帝紀元、除了製造計数上的混乱、譲大家徒労地多做幾次四位数加減法、顕然没有任何現実意義。
結論としては、

(略)公元紀元早已在中国人的生産、生活以及国際交往中落地生根、開花結果。対於公元紀年在全世界普及、我men理応欣悦於人類文明的交融、認同輿共同成長。
また、ここでは黄帝紀元が「偽伝統」であるとも主張されている;

在我看来、“黄帝紀元”在中国不過是一種“偽伝統”、或者説充其量是一種已経“死去了的伝統”、以捍衛“死去了的伝統” 或者“偽伝統”的名義来埋葬活着的伝統、正在成長的伝統、不僅不是文化自救、反而是一種文化上的自虐輿自残。対自己的文明做如此“浄身運動”、長此以往、中華文明就只能退回到山頂洞裏去画堅条来紀年。

なお、


黄帝紀元(こうていきげん)とは、中国の清末、革命派が用いた紀元。中国人の先祖とされる伝説上の帝王黄帝にもとづく。紀年法としては黄帝紀年(こうていきねん)という。

光緒29年(1903年)、劉師培は『国民日日報』に「黄帝紀年論」を発表し、年号制に反対し、同時に康有為ら変法派が主張した孔子紀年にも反対した。劉師培は黄帝誕生の年を紀元とすることを主張し、その年を4614年とした。 しかし、生卒年は文献上で一致する年がないため、宋教仁は黄帝即位の年とされる癸亥の年を紀元とすることを主張し、1904年を黄帝紀元4602年とした。中国同盟会の機関誌『民報』を始めとして革命派の雑誌はこれを採用した。

武昌蜂起が起こり、湖北軍政府が成立すると黄帝紀元が用いられ、各省政府もこれに応じたが、共和政府樹立の議論のなかで黄帝紀元は帝王在位に基づく紀年法であって民主共和の精神にそぐわないとの意見が出された。

孫文中華民国臨時大総統の地位に就くと、黄帝紀元4609年11月13日(1912年1月1日)を中華民国元年元旦とすると通達し、黄帝紀元の使用は停止された。
http://www.weblio.jp/content/黄帝紀元

黄帝紀元は日本だと神武紀元に対応するか。最近は、右翼でも神武紀元はあまり人気がないか。
それはともかくとして、干支という伝統の衰退は嘆かわしい。日曜日に或る仏蘭西人と虹橋の四川料理屋で食事をしたのだが、彼は自分の干支を言えたのに私は言えなかった。

*1:「多此一挙」は余計なお世話の意なり。

*2:新京報』から転載されたもの。

*3:すなわち西暦。

*4:「虚無縹緲」は曖昧模糊の意なり。