哲学の効用?

永井均氏語る;


いじめ、自殺…子供のためにこそ「哲学」を

11/14 15:04


 いじめや不登校、学級崩壊、凶悪化する一方の少年犯罪、相次ぐ自殺など、子供を取り巻くさまざまな問題が山積している。そんななか、教育や政治などとは違うアプローチの方法として、子供たちの目線に立って、哲学という視点から考えてみてはどうだろうか。『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書)などの著者で、哲学者である千葉大学永井均教授に「子供と哲学」について聞いた。(舛田奈津子)

■根本的な“なぜ”
 例えば、子供の自殺は、死という選択肢以外にも解決策があるはずなのに、直面した現状について感情的になり、広い視野で考えられなくなった場合などに起きやすい。世界や人生の根本原理を追求する哲学は、生きる意味や学ぶ意味などを見失いがちな子供たちへのメッセージとして、力を果たすことができるのだろうか。

 永井教授は「哲学が何かを防げるとはいえないが、一助にはなるかもしれない」と指摘する。

 教授自身の哲学との出合いは“物心”がついたころだったという。「おとなしくて、消極的な子供だったけれども、いつも根本的なことが気になっていました」と振り返る。

 「なぜ、成績は良くなければいけないのか」「教わった歴史は真実なのか」など、疑問点として次々と浮かび上がってきた。そして、「悪いことをしてはなぜいけないか」「ぼくは存在するのか」−。この2つの超難問は、大人になるまで抱き続けた問題だという。

■勉強じゃない哲学
 『〈子ども〉のための哲学』と相前後して出版された『翔太と猫のインサイトの夏休み 哲学的諸問題へのいざない』(ナカニシヤ出版)も、中学生や高校生の読者を対象にしている。主人公は、中学生の翔太と父親が拾ってきた人間の言葉を話す猫で、名前は「インサイト」。英語で「洞察」を意味する。

 物語は翔太とインサイトの会話を中心に、「たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとはどういうことか」「自分がいまここに存在していることに意味はあるか」といった疑問をひもといていく。

 また、『子どものための哲学対話』(講談社)も、ぼくと飼い猫の「ペネトレ」が主人公。ペネトレは、インサイトと同様に、「洞察」を意味するフランス語だ。漫画家の内田かずひろさんのイラストとともに、「元気が出ないとき、どうしたらいいか?」「友だちは必要か?」「死について」などをテーマに、ぼくとペネトレの対話が繰り広げられる。

 これらの書物を通じて、「哲学は勉強なんかじゃない。哲学は“素朴な疑問”を考え続けること」とメッセージを送る。

■考えること大好き
 永井教授の本は、自分の子供時代の経験を重ね合わせた子供向けの哲学書ではあるが、決して平易な内容ではない。子供から大人まで、幅広い好奇心を満たす内容になっている。

 「もちろん、子供の哲学だけが哲学なのではありません。子供の哲学の大きな特徴は、純粋に知的であること。それによって何かが変わるわけではないが、ただ単に本当のことが知りたい、これが子供の問いの特質です。青年も大人も老人も、単なる知的疑問というものがあることを忘れてしまっているんです」

 哲学は、子供たちの視野を広く外に広げ、意識を現状から飛び跳ねさせたり、潜り込ませたりと動かす力があるのだともいう。

 永井教授は「哲学といえば、暗い、難解、退屈といったイメージがあるようだが、本当は違う。学問はこの世で一番楽しい遊びであり、子供の多くは考えることが大好きな哲学者。子供にとっての哲学とは、好奇心と探究心に満ちた遊び場なのです」と話す。

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【プロフィル】永井均
 ながい・ひとし 慶応義塾大学大学院文学研究科修了後、信州大学人文学部助教授などを経て、平成10年から現職。専攻は哲学・倫理学言語哲学創始者ウィトゲンシュタインの研究などで知られる。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/life/children/27581

哲学、但し制度化された哲学ではなく、life of mindとしてのそれ。そうしたものとしての哲学が自殺の回避に効用があるとしたら、この舛田奈津子という記者がいうような「生きる意味や学ぶ意味などを見失いがちな子供たちへのメッセージ」なんかとは関係ない。端的に、哲学或いは思考は行為の連鎖を切断するからだ。思考することはそれ自体、相互行為の連鎖からなる社会に対するストライキであるといえる。哲学は何の役にも立たないどころか、行為そのものを中断させる。ハンナおばさんがいうように、「危険な思想(dangerous thought)」というものがあるのではなくて、thinkingという振る舞い自体が危険なものなのである。だからこそ、世間において、哲学は(例えば公務員試験に出てくるような)キョーヨーということに留められる。
そのような哲学が可能になる条件としては、先ずhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061113/1163423052で言及したsolitudeが経験できるための「逃げ場」の存在であろう。社会的な圧力による「逃げ場」の縮小、これはセキュリティへの欲望だけでなく、思考の危険性が社会的に気付かれているからだろうか。現代社会では、効率/非効率という対立が過度に強調されているわけだし*1。あと、哲学というか思考に必要なのは〈驚く能力〉であろう。〈驚く能力〉は教育によって縮小させられていないか*2

*1:倫理的な側面は脇に置いておくとしても、社会は危険で(さらには非効率な)思考を実は必要としているともいえる。思考は偶発的に社会にとっても有用な副産物を生成してしまうこともあるからだ。

*2:例えばhttp://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20061116/p2とか。